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『マチネの終わりに』第五章(3)

 他人の演奏を聴いていて、集中力を欠いてくると、いつの間にか、パリの洋子のことを考えていた。

 マドリードに来てから、洋子には一度も連絡しておらず、あちらからも音沙汰はなかった。

 彼女は今、婚約者とどんな話をしているのだろうか?

 既に結論は出ていて、自分の横恋慕は、もう彼女だけでなく、彼と二人で乗り越えるべき問題となっているのかもしれない。その会話を想像する度に、彼は強く目を閉じ、苦痛にむしろ進んで身を委ねるようにして、気を紛らせようとした。

 あの晩の会話は、どうしてあんな具合になってしまったのだろう?

 何よりも、洋子に対する自分の思いを伝えなければならなかった。――愛している、と。しかし、それは当然として、彼が事前に考えていたのは、その先のもっと具体的な話だった。

 洋子は彼が、一体、どの程度の収入を得ていて、どこで生活をするつもりなのかといった、基本的なことさえ知らなかった。健康状態はどうなのか。子供を欲しいと考えているのか。そんなことを何一つ話し合わないまま、彼は彼女に、リチャードとの結婚を反故にしてほしいと迫ったのだった。

 冷静になってみれば、洋子のように知的な人間が、そんな冒険的な決断を下すとは、到底思えなかった。彼女が最後に、彼の恋愛関係を気にしたのも尤もなことで、それさえ理性的に受け止められなかったというのは、どうかしていた。

 彼は、洋子の好意を、或る程度は信じることが出来た。しかし、だからこそ彼女も、結婚の可能性について、より踏み込んだ話をしたかったのではなかったか? 長々としじみを茹で殺しにした話などして、自分はまるで馬鹿のようじゃないか。……

 フェスティヴァルは盛況だったが、蒔野は、独り取り残されたかのように、今回の参加の不首尾を感じていた。自分の演奏には懐疑的で、他人の演奏には無感動だった。唯一の例外は、四日目に聴いた若いポーランド人ギタリストの演奏だった。


第五章 洋子の決断/3=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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