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『マチネの終わりに』第二章(5)

 泣き出すんじゃないだろうなと、蒔野はその思いつめた様子にたじろいだ。そして、相当な変人だなと改めて思った。病的なところはなかったが、それにしても、マネージャーが、こんなにナイーヴに音楽家に同調していては、先が思いやられるというものだった。
 彼女の率直さには、確かに、心を打たれるところもあった。思い余ってこんなことを言い出すのも、わかったつもりでいて、結局はまだ、彼女の胸の内をよく理解できていないからなのだろう。彼はせめて、そのもどかしさを忖度して、
「気持ちはよくわかったし、嬉しいけど、ビジネスなんだから。こんなこと、俺が言って聞かせるのは、あべこべだよ。」と言った。
 三谷は、蒔野のそのうんざりした口調に、さすがに少し冷静になったが、同時に自尊心も傷つけられたらしかった。
「もちろん、蒔野さんがスムーズに活動できるようにするのがわたしの仕事ですから、それは心得てます。わたしは、自分が芸術家じゃないことはよくわかってます。そんなふうにはうぬぼれてませんし、自分の立場に責任を持ってます。」
「それならいいよ。……いいんですよ、じゃあ。とにかく、現実的に、うまくやっていくことを考えないと。俺にはできないことを、三谷さんに――三谷さんの会社に委ねてるんだから。」
「そうです。だから、面倒なことはわたしたちに任せて、蒔野さんには、音楽にだけ集中してほしいんです。今度のレコードを出さない、ツアーにも出ないとなると、わたしたちだって大変です。コンサート会場を全部キャンセルして回るんですから。ジュピターさんとは比べものにならない損害です。そんなことしていいんだろうかって、今も不安です。でも、わたしはそうすべきだと信じています。」
 蒔野は、何か言おうとしたまま、言葉が出てこないので、結局、黙って頷いただけだった。唇を噛んで、歩き始めた彼を、三谷はまた呼び止めた。
「蒔野さん、」
 蒔野は、さすがに苛立ちを押さえられなかった。
「何?」


第二章・静寂と喧噪/5=平野啓一郎

#マチネの終わりに


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