『マチネの終わりに』第六章(48)
当然、不審に思って電話かメールで連絡を取ろうとするだろう。すぐにバレてしまう! どうしてこんな馬鹿なことをしてしまったのだろう? 三谷は後悔に駆られて、たった今送信したばかりのメールを取り戻そうとしたが、その手は決して届かなかった。
絶望的なもどかしさに、彼女は血の気を失った。
蒔野は絶対に、自分を許さないだろう。激怒し、軽蔑し、自分をこそ彼の世界から消し去ってしまおうとするだろう! ああ、どうすればいいのだろう? また新宿まで戻って、洋子に会い、すべてを打ち明けて謝罪し、蒔野にだけは言わないでほしいと頼むべきか。彼女なら、優しく理解し、赦してくれるのではあるまいか。――あり得なかった。このままこの携帯電話を持って、どこかに行ってしまおうか。
けれども、蒔野は他でもなく自分を待っていた。今は世界中の誰よりも、自分の到着を待っているのだった。洋子も、あれを読めば、もう連絡などしてこないのではないだろうか?
雨は一向に止む気配がなく、赤羽橋で降りて、傘を開いて歩き出すと、頭上でぼとぼとと太鼓の撥で叩いているような音がしていた。
三谷はハッとして、蒔野の携帯を取り出すと、送信履歴から先ほどのメールを削除した。画面を見ながら歩いていたせいで、彼女は大きな水たまりに気づかなかった。
足を踏み出すと、くるぶしまで浸かってしまい、慌てて後退った。その刹那――それは、誓ってわざとではなかった!――彼女は手を滑らせて、蒔野の携帯を、その水の中に落としてしまった。
「あっ!」
急いでしゃがんだが、すぐには拾い上げず、少し躊躇ってから、その濁った水に手を突っ込んだ。画面は闇に閉ざされている。雫を拭って、どのボタンを押してみても、何も表示されなかった。
*
蒔野の元に携帯電話が届いた時には、既に九時半を回っていた。祖父江の手術は、まだ続いていた。
第六章・消失点/48=平野啓一郎
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