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『マチネの終わりに』第四章(38)第五章(1)

 蒔野は、ほとんど諦念の響きさえある声で、少し間を置いてから言った。

「洋子さんを愛してしまってるというのも、俺の人生の現実なんだよ。洋子さんを愛さなかった俺というのは、もうどこにも存在しない、非現実なんだ。」

「……。」

「もちろん、これは俺の一方的な思いだから、今知りたいのは、洋子さんの気持ちだよ。」

 混雑していた店内は、いつの間にか、客が疎らになっていた。彼らの右隣にはもう客はなく、左隣の客も帰り支度を始めていた。

 洋子は、唇を噛んで落ち着かない様子で俯き、また面を上げて蒔野を見つめた。

「あなたは、今は誰とも?」

 蒔野は、力なく微笑んで、何も言わずに首を横に振った。そして、店員を呼んでカードで会計を済ませた。バッグを開けようとする洋子を軽く手で制した。

「マドリードから戻るまで、時間をくれない? それまでには、はっきりさせるから。」

 蒔野は、頷いてみせると、少し表情を和らげて、

「強引すぎたね。……伝えたかったことは伝えたけど、もっとうまく言える気がしてた。Bonne continuation.じゃなかったな、あんまり。」

 と自嘲するように言った。

 洋子は、何度も首を横に振った。

 蒔野の心を遠ざけてしまったのを彼女は自覚した。取り返しがつかないことをしてしまった。絶望感に、彼女の胸は押し潰されたが、誤解を解く術はなかった。

「うれしかった。本当に。――わたしがよくないの。ごめんなさい。……」

 蒔野は、しかし、このやりとり自体に耐えられなくなったかのように、ただ、「行こうか。」と言って立ち上がった。

 第五章 洋子の決断(1)

 スペインのマドリードで、テデスコのギター協奏曲を演奏した蒔野は、舞台に上がる前から、いつになく緊張していて、開演時間を勘違いしていたり、PAの調整に手間取ったりする現地スタッフに、何度か声を荒らげそうになった。終いには、見かねたコンサート・マスターから、「ここはスペインだから。日本とは違うよ。」と、肩を叩いて宥められた。


第四章 再会/38  第五章 洋子の決断 /1=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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