見出し画像

『マチネの終わりに』第二章(12)

 ネット空間の途上で、ただ、持ち主を失ったパソコンが開かれるのを待っている。いつの日か、洋子ではない誰かが、後処理としてアクセスしたサーバーから、大量のメールがどっと溢れ出す。数日後か、数週間後か。その時には、彼の言葉もまた、ようやく一斉に発せられた、間に合わなかった呼びかけの一つに過ぎなかった。
 無論、無事であったとしても、今は混乱していて、それどころではないだろう。仕事の傍ら、殺到するメールを一つずつ片付けてゆく中で、自分のメールは、必ずしも優先されるわけではあるまい。精神的な意味で、今彼女を支えているのは、家族であり、ふるくからの友人であり、そして誰よりも、「アメリカ人のフィアンセ」のはずだった。二人の頻繁なやりとりの最中に、自分の三通目のメールがうるさく届く。その時の彼女のそっけない表情を想像して、蒔野は急に気後れした。
 「下書き」のまま保存されているメールを、彼はまた開いた。そして、とにかく無事を祈っているという気持ちだけを書いて、今度は送信ボタンを押した。やり場のない思いに駆られて、結局、そうするより他はなかった。
 初対面の時に洋子自身が語っていた通り、イラクの治安は、二〇〇三年の侵攻後、最悪の状態に陥っていた。二〇〇五年の議会選挙を機に、バグダッド陥落後の紛争は内戦へと移行し、民間人の犠牲者は急激に数を増していた。洋子がイラク入りする直前の前年十月には、一カ月間の死者数が、過去最多の三千七百九人にも上った。
 蒔野はその数を、いつもの癖で、コンサート会場の収容人数で想像した。サントリーホールで二千人。あの座席が、すべて無残な死体で埋め尽くされ、更に座りきれない死体が千七百体も山積みになっている光景。――地獄絵図だった。
 初対面の夜、自分に笑顔で語りかけていた彼女の姿を何度となく思い返した。そして、テロリストを目にした時の彼女の胸中を想像した。そんな余裕もなかったのだろうか? 彼女のように聡明な人間は、そういう刹那に、自分の運命をどんなふうに受け止めるのだろうか?


第二章・静寂と喧噪/12=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?