見出し画像

『マチネの終わりに』第四章(35)

「そう?」

「全然。わたしは、自分が何になりたいのか、ずっとわからなかった。よくある話だけど。ジャーナリストって、そういう人間に向いてると思う。世の中の色んな事件を取材して、色んな人に会って、話を聞くことが出来るでしょう? わたし個人は一生会えない人も、RFPの記者だって言えば取材に応じてくれるし、質問にも答えてくれる。もちろん、わたしに対してじゃなくて、匿名の読者に向かってね。ヘンに我が強くない方がいいところもあるから。でも、広く浅くたくさんのことを知るだけだから、蒔野さんみたいに、一つのことを深く追求している人、すごく尊敬する。」

「よくわかるけど、……『広く浅くたくさんのことを知る』ってことで、バグダッドにまで行けるのかな。」

「この仕事をしている以上は、すべきことはわかってるし、それをしたいとも思ってる。もちろん、危険はあるけど、行かないことの不安も、それはそれで苦しいものよ。わたしだけじゃなくて、志願者はたくさんいたから。……それに、今の世界を知りたいと思えば、イラクだけは除外するっていうことは無理でしょう? グローバリズムの時代だから。おかしな言い方かもしれないけど、わたしだって、気がついたらバグダッドにいたみたいなものなの。……四方八方から、近くからも遠くからも、あらゆることがわたしたちの運命を貫通してゆく。為す術もなくね。それが、銃弾のかたちをしてることもある。――そういうことじゃないかしら?」

 蒔野は、しばらく言葉もなく、彼女を見つめていた。そして、理解するように頷くと、イチゴと大黄を使った新奇なデザートを少しつつきかけて、また顔を上げた。

「地球のどこかで、洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ。」

 洋子は一瞬、聞き間違えだろうかという顔をした後に、蒔野がこれまで一度も見たことがないような冷たい目で彼の真意を探ろうとした。

「そういうこと、……冗談でも言うべきじゃないわよ。善い悪い以前に、底の浅い人間に見えるから。」


第四章 再会/35=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?