『マチネの終わりに』第六章(46)
洋子は蒔野に何を告げられれば、彼との関係を断念するだろうかと、そのことだけを考えた。問題は二人ではなく、二人の愛だった。
三谷は、徐に顔を上げると、理由はわからないが、洋子と会って以来、蒔野が音楽的な危機に陥っているというのは事実なのだと自分に言い聞かせた。そして眉を顰めた。
「洋子さんへ」と、蒔野の送信履歴を参考にメールを書き出すと、三谷は一気に次のように書いてみた。本当に送るかどうかは、またあとの話だった。
「連絡、遅くなってごめんなさい。
あなたに謝らなければならないことがあります。
ギリギリまで、ずっと悩んでいたのですが、僕はやっぱり、今回、あなたに会うことはできません。
もう何カ月も考えてきたことですが、僕の音楽家としての問題です。あなたには、何も悪いところはありません。ただ、あなたとの関係が始まってから、僕は自分の音楽を見失ってしまっています。状況を改善するために努力をしてきましたが、表面的にごまかし続けるのは、誠実じゃないと思います。あなたに対しても、自分に対しても。
あなたのことがずっと好きでしたが、この先もそうである自信を持てません。だったら、後戻りができるうちに、ケジメをつけるべきだと思いました。
会ってしまうと、僕はまた自分を偽り、あなたを騙してしまうでしょう。
ただの友達として、また再会できる日を楽しみにしています。でも、しばらく気持ちを整理する時間が必要です。
あなたに会えたことを感謝しています。ありがとう。
蒔野聡史」
書いている間中、頬が冷たく火照ってゆくような奇妙な感じだった。
送信しないまま、三谷は次に来た電車に乗って赤羽橋駅に向かった。蒔野に言って欲しかった言葉であり、彼女自身の思いであり、また願望であって、洋子がその意味を誤解する余地のない常套句の数々だった。
第六章・消失点/46=平野啓一郎
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