見出し画像

『マチネの終わりに』第五章(7)

 年齢的に、抱えている問題は似たり寄ったりのはずだったが、お互いに、あまり真剣に悩みを打ち明けたりはしなかった。その代わりに、洋子との生活を考えて、活動拠点をパリに移す可能性について話してみたが、答えは予想通り、否定的なものだった。

「今のヨーロッパは厳しいよ、ギタリストが生きていくには。サトシなら、どっかで教えれば生活は出来るだろうけど、演奏活動はなかなか。……第一、それで帰国したんだろう? 日本にいたらいいじゃないか、そんな、年間何十回もコンサートが出来る国なんて、恵まれてるよ。俺が住みたいくらいだよ。」

 蒔野は、嘆息しつつ、頷くより他はなかった。

 昔馴染みのギタリストたちが、皆、結婚して妻や小さな子供と連れ立って来ているのを見るにつけ、ここに洋子が一緒にいてくれたなら、どんなに素晴らしかっただろうと、蒔野は考えた。初対面の夜が、たまたまスペイン料理の店だっただけに、ふと振り返って、洋子が傍らにいるという想像には、どこか懐かしささえあった。

 あんな美人を妻として紹介したら、一体、どこで口説いたのかと、さぞや羨ましがられただろう。容姿だけじゃない。洋子がここに加われば、たちまち、会話の中心になるに違いなかった。ギタリストなら誰でも知っている、あの《幸福の硬貨》の監督の娘なのだから。根掘り葉掘り、質問攻めにされるだろう。その一つ一つに、気の利いた笑いを含ませて返答する彼女の傍らにいるのは、どんなに鼻が高いだろう。それに、今のバグダッドを見てきた人間など、そうはいまい。何度となく、ニコラ・サルコジのフランス大統領就任が話題に上ったが、彼女はまさにその取材で、この一月ほど多忙を極めていたのだった。

 どんな場所でも、彼女の知性とユーモアは、温かく迎え入れられ、人々を魅了することだろう。

 蒔野は、そんなふうに、誰かと一緒にいること自体を、人に自慢したいと思ったことなど、これまで一度もなかった。こういう特殊な集いに、自然に溶け込めるというのも、なかなか容易なことではなかった。しかし、彼はまさにその特殊な世界の住人であり、彼が結婚相手に期待するのは、その彼の世界を一緒に楽しむことが出来る女性だった。


第五章 再会/7=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?