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『マチネの終わりに』第四章(3)

 そうすると、ふしぎと、文章がすらすらと出てきました。なぜかはわかりません。バグダッドで、あなたの演奏ばかり聴いていたからかもしれません。あなたの音楽が、あの絶望の世界にいた間、ずっとわたしの精神的な支えになっていました。
 最初は、あなたに見せるつもりはなくて、ただ想像の中で、あなたに聞き役になってもらっていました。けれども、書き終わってから、やっぱり読んでもらいたいと思い直しました。……」
 洋子は、自爆テロを間一髪逃れられた時の状況から筆を起こして、その後の自分の感情の揺れについて、努めて理性的に書き綴っていた。今という時には、そうすべきだというその態度を、蒔野は、彼女らしいと感じた。そして、その芯の強い、静かな筆致が、彼の胸にも染み渡った。
「――あと一つだけ質問をしていたら、わたしは死んでいました。何をしていても、その瞬間に時間が巻き戻されてしまいます。
 なぜ、わたしはあそこで死ななくて、今生きているのか。……生まれて初めて、時間が一秒一秒、均等に、ただまっすぐ流れていくことに感謝しました。今までは、それを無慈悲にしか感じませんでしたが、わたしの心をあまり慮りすぎるような時間には、きっと耐えられないでしょう。
 今はただ、時が流れるのに身を任せています。……」
 それから、イラクの惨状とそこで今も生活している人々への思いが綴られ、帰国後に父であるイェルコ・ソリッチが監督した映画《幸福の硬貨》を見直したこと、その中で引用されているリルケの《ドゥイノの哀歌》を読み返したことが続いていた。
 二週間休暇を取った後、今はまた、パリのオフィスに戻っているという。

 フィアンセのことも、結婚のことも何も触れられていなかった。そして、六月の予定が以前に聞いていた通りなら、パリでまた会いたい、その時には、もっと楽しい話をするからと、最後を少し和らいだ調子で締めくくっていた。


第四章 再会/3=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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