『マチネの終わりに』第一章(6)
「是永さん、そんなこと思ってたんですか?」
「みんな言ってますよ! でも、残念でしたー。洋子さん、フィアンセがいますから。大学時代の同級生で、蒔野さんとは全然タイプの違う経済学者さん。アメリカ人。」
蒔野は、うっかり美術品に触れようとして注意でもされたように手を引っ込め、
「それは残念。しかし、その最後の『アメリカ人』っていうのは、何なんですか?」
と言いながら、彼女の左手に目を遣った。薬指にプラチナのリングが覗いていた。
洋子は、その屈託のないやりとりの中で、自分を野暮だと感じたらしく、
「グールドのピアノがずっと好きでしたけど、これからは、蒔野さんのギターを聴くことにします。」と、また表情を和らげた。
「あれは、名盤ですから。僕も大好きです。聴いちゃうと、あっ、やっぱりピアノの方がいいかなと思いますよ、きっと。はは。あっちは、しばらく聴かないでください。――冗談です。僕とは比較にならない大天才ですけど、一つだけ共通点もあるんですよ。」
「何でしょう? 寒がり?」
「あー、それもちょっとあるかな。――コンサートが嫌いなんですよ、僕は。」
洋子は、なぜかそれを軽く受け流すように、
「それじゃあ、今日は、立派に“野蛮な儀式”に耐えてみせたんですね。」と、彼の目を無言で数秒間見つめた。
蒔野は、その問いかけるような、それでいて、既に彼を十分に理解しているようなふしぎな眼差しに、それまでの社交的な笑顔を、つい落っことしてしまった。自分が反発を覚えているのか、喜んでいるのかもわからないまま、また微笑みなおそうとした。
ギターケースを抱えて傍らで聞いていた三谷は、その「野蛮な儀式」というグールドの言葉の引用を、洋子自身の表現と誤解して眉を顰めた。是永は、蒔野の表情から、彼女が彼の不興を買ったのではないかと、心配そうな表情をした。そして、先ほど途中になっていた紹介の続きをした。
「洋子さんのお父様、蒔野さんの大好きな《幸福の硬貨》の監督さんなんです。」
「え、あの映画の? イェルコ・ソリッチ……監督?」
蒔野は、驚いて洋子に顔を向けた。
第一章・出会いの長い夜/6=平野啓一郎
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