『マチネの終わりに』第六章(3)
無論、蒔野は、深入りし得なかったが故に、その分長く睦み合い、結局、寝不足のまま別々の寝床で浴びた、あの白々とした朝日を度々思い返した。濃淡がひどく斑で、まだ塗り立ての乾いていない白ペンキのような眠りのあと。昨夜の記憶と何か夢らしきものとの区別を、うっすらと覆い隠そうとしていた、あの倦怠。……
目を覚ましたジャリーラは、リヴィングにまだ蒔野がいたことに驚き、何事かを察したように、彼と洋子との表情を交互に見比べた。蒔野は苦笑して首を振り、洋子に目配せした。洋子は、知らないという風に肩を窄(すぼ)めて、やはり口許に笑みを仄めかした。ジャリーラは、その微妙な空気を、野暮なことは言うなという意味に取ったらしく、頬に赤らんだ笑みを含ませて下を向いた。
月曜日で、洋子は慌ただしく仕事の準備をし、ジャリーラを残して蒔野と一緒に家を出た。
狭いエレヴェーターの手動のドアを閉めると、二人とも言葉もなく抱き合い、一階に着くまでの束の間を惜しんでキスをした。
幸い、誰も乗ってこなかった。
最後に顔を離して見つめ合うと、洋子は、さっき塗ったばかりの口紅が彼の口の縁に移ってしまったのを、人差し指でそっと拭った。
その日の夜も、近所のレストランで、三人で夕食をともにしたが、ジャリーラの目を盗んで二人きりになるための画策は、どちらも未練を残しつつ諦めていた。
その分ただ、相手の眼差しに、何か抱擁の代わりになるものを――その埋め合わせとしての熱と潤いを求めていた。
蒔野は二人をアパルトマンまで送ったが、その日は部屋には、もう上がらなかった。洋子はジャリーラを先に行かせると、外門を出る前の暗がりで、最後の抱擁を交わした。またすぐに会おうと約束し、今度は自分が東京に行く、来月にでもと彼女は言った。
蒔野は幸福だった。
生活の至るところに愛の光が差し込み、その反射が、折々彼を驚かせ、その目を細めさせた。
第六章・消失点/3=平野啓一郎
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