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『マチネの終わりに』第四章(10)

 蒔野は、クラシックの他の演奏家と同様に、必ずしもジュピターの専属ではなかった。しかし、デビュー・アルバム以来、最も多くの録音を残しているのがジュピターであり、売り上げも、他社で出したものに比べて平均的にかなり多かった。

 岡島の話では、噂は以前からあり、経営的には、いつそうなってもおかしくなかったが、ほとんどの社員は、あまり現実感を持っていなかった。寝耳に水だった、とのことだった。
 社内には、「当面、従業員の解雇はない」という本社の社長のコメントが伝わり、皆が「解雇はない」ではなく、その「当面」という言葉のことばかり気にしているという。
 買収後のリストラは、社員のみならず、所属する音楽家にも及ぶはずで、コンサートの共演者たちが気に掛けていたのも、つまるところ、そこだった。
 蒔野は、常日頃、海外の有名オーケストラの指揮者の人事を巡る裏話から団員の不満やソリストの生活困窮に至るまでをやたらと詳しく喋り散らしている「オタク」の岡島に、自社の買収が「寝耳に水」だったとは名折れじゃないかと、思わず一言、嫌味を言った。冗談めかしてはいたものの、内心呆れていた。普段はうまく頭に撫でつけている岡島の薄い縮れ毛が、その日に限っては、外の強風に煽られたのか、ひどく乱れていた。
 しかし、岡島はそれを待ち構えていたかのように、こんな話をし出した。
 買収の話が社内一般に伝わったのは、蒔野が、渋谷で是永に会った日の朝だった。ただ、自分は某筋から、既にその情報を掴んでいた。多分、社内でも自分だけだろう。もちろん、確実ではなかったので、蒔野に話せなかったのは申し訳なかった。

 蒔野のCDは、クラシックの世界では、まだよく売れている方だが、厳しい時代だけに、買収後、グローブ・ミュージックがどう判断するかはわからない。特に販売部は、数字のことしか頭にないので、実は今でも、蒔野の初回プレスの枚数については、いつも喧嘩になっている。絶対こんなに売れっこないと言い張る人間たちと、自分がこれまでどんなにがんばって戦ってきたか!


第四章 再会/10=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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