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『マチネの終わりに』第二章(4)

通行人たちは、痴話ゲンカでも見たような顔で、そそくさと通り過ぎていく。違うんですよ、とその背中に一言言いたい気分だった。
「今回のことは、俺が悪いんだよ、それは。やるって言ったことを急に止めるって言い出したんだから。怒るよ、そりゃ向こうだって。」
「でも、蒔野さんは天才なんですよ! 世界中にファンがいて、尊敬されてる芸術家が、どうして普通の人と同じように考えなきゃいけないんですか?」
「笑われるよ、そんな大声で。」
 蒔野は、勘弁してくれといった様子で手で制した。
「そりゃ、そういう思い込みで生きていけるなら、俺だって苦労しないよ。けど、無理でしょう、それは? 俺は謙虚なんだよ、こう見えても。」
「そう思えませんけど。」
「いや、そりゃ図々しいけどさ、なんて言うか、……とにかく、マネージャーと二人してこんな会話してる時点で、寒々しいにもほどがあるよ。ただでさえ寒い日なのに。」
 蒔野は、コートの襟元を閉じ合わせて、震え上がってみせた。三谷は、彼の言っていることがよくわからない時に見せる、憮然とした表情になった。
「是永さんは、自分のことしか考えてないんです。わたし、前からそう思ってました。」
「そう? 仲良いと思ってたんだけど。――もしそうだとしてもだよ、責められないよ、それは。みんなそうでしょう?」
「わたしは、蒔野さんが素晴らしい作品を生み出すことだけを考えています。」
 蒔野は、即答せず、少し間を置いてから口を開いた。
「その気持ちは、うれしいよ。けど、それだって突き詰めれば自分のためでしょう?」
「違います。」
「いや、批判してるんじゃなくて、それが現実だって言ってるんだよ。」
「違います! わたしはただ、一音楽ファンとして、蒔野さんの素晴らしい音楽を聴きたいだけです。その意味でなら、わたしのためです。そのために何ができるか、いつも考えてます。だから、蒔野さんにも、こうして意見を聞いてもらってるんです。」


第二章・静寂と喧噪/4=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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