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『マチネの終わりに』第四章(7)

 平生、蒔野は、業界政治とはまるで無縁だが、数年前に、日本ギタリスト連盟の人事を巡って、祖父江が理不尽な非難を浴びていた時には、そのいざこざに首を突っ込んで、自らも大分、火の粉を浴びた。無論、祖父江を擁護するためである。
 業界とは無関係のヒマな文化人まで参加して、「旧態依然」だの「権威主義」だのと一頻り騒いで鎮静化したが、そういう厄介事にいかにも無関心なはずの蒔野が出てきた、というのは、ちょっとした話題になった。
 蒔野は、新聞社の取材を受け、元々はつまらない誤解に始まった騒動の説明を、まるで彼の演奏のように明晰にした後に、幾らか情緒的にこうコメントを残している。
「僕は、大家が大家に相応しい扱いを受けるっていうのは、大事だと思うんです。権威主義とか何とか言ってる人たちは、祖父江先生の芸術も功績も何も知らないんでしょう。ギターに限らず、『あの人は大切にしなきゃいけない』みたいな尊敬がある世界って美しいですよ。ないと、悲惨じゃないですか。――別に祖父江先生だから言ってるんじゃない。僕が出てきたせいで、却ってややこしくなったかもしれないですけどね。」
 父に連れられて参加した講習会で、まだ小学生だった蒔野の才能に驚嘆し、「天才少年」と呼んで、以後、パリ国際ギター・コンクールで優勝するまで面倒を看たのが祖父江だった。岡山の実家から、東京まで独り新幹線でレッスンに通うと、祖父江はよく自宅に泊め、妻の手料理でもてなしてくれた。一人っ子の蒔野は、祖父江の二人の子供と弟や妹のようによく遊んだ。温厚だが、才能の見極めには冷徹な祖父江が、「秘蔵っ子」として、蒔野にどれほど手を掛けたかは、業界では有名な話だった。
 蒔野はしかし、十代の頃には、あとで人が言うほど、自分が特別にかわいがられていたとは思っていなかった。とにかく、弟子の数が多かったし、演奏家として祖父江も脂が乗っていた時期で、多忙を極めていた。漠然と、本場ヨーロッパの弟子たちは、自分とは比較にならないくらい優秀なのだろうとも想像していた。実際、あまり褒められた記憶もなく、たまに褒められると、いよいよ才能を見限られて、先生も優しくなったんだろうかと却って不安になったりした。


第四章 再会/7=平野啓一郎  

#マチネの終わりに

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