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『マチネの終わりに』第四章(12)

【あらすじ】洋子はイラクで取材中にテロに遭い、九死に一生を得てパリに戻った。東京で心配していた蒔野は洋子からの長文のメールでその無事を知る。洋子の婚約者リチャードは結婚を急ごうとする。だが洋子と蒔野はパリで半年ぶりに再会することを約束した。
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 それでも、売り上げが伸びているかと言えば、そうでもなかった。落ちてないだけマシだという程度で、グローブが自分をどの程度の音楽家として扱うつもりなのかは、確かにわからなかった。
「私だって、クラシック部門一筋でここまで来たわけですからね。悔しい気持ちは人一倍です。でも、ここで終わるわけにはいきませんから。ええ! 新天地で、なんとかもう一度、クラシックを盛り上げていきたいというその一念です。そのために、蒔野さんのお力がどうしても必要です。《この素晴らしき世界》の件、もう一度、考え直してはいただけませんか?」
 蒔野は、岡島への返事を保留した。
 グローブのクラシック部門の担当者には、以前から是非うちでもレコードをと声を掛けられていた。歴史はジュピターの方があるが、現在の会社の規模で言えば、グローブは倍以上である。ライヴァルのジュピターとの長期的に安定した関係を優先して、話を断っていたのは蒔野自身だった。
 他のギタリストが、どこからでも拘ることなくレコードを出しているのに比べれば、それは、ある意味では恵まれていたが、古風な仕事の仕方だった。
 買収されるというなら、何の問題もない。しかし、岡島と今後も一緒に仕事をするというのは、御免被りたい気分だった。
 今まで気づかなかったが、この男には、人を不快にさせる、一種天才的な才能があるなと、彼は笑いに紛らせてその場をなんとかやり過ごした。
 パリに発つまでに、もう一度面会をと求められていたが、蒔野はそれに応じず、直接、三谷経由で連絡してきたグローブの担当者と帰国後に会う約束をした。


第四章 再会/12=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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