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『マチネの終わりに』第二章(7)

 蒔野は諦めが悪く、もう一度、送受信ボタンを押し、今度は何も受信しなかった。そして、仕事関係のメールを二通開封したところで、返信もしないままパソコンを閉じた。
 マグカップを片手に窓辺に腰を下ろして、彼はぼんやりと外を眺めた。
 父の死後、そのささやかな遺産と自身の蓄えとを足して頭金とし、代々木の古い四階建てのビルを買い取って、自宅兼仕事場にしていた。一階はガレージ、二階は練習スタジオで、三階は倉庫、四階が住居である。
 部屋の内装は極力簡素にして、余計なものは皆、三階に押し込んでいた。家具は、ツアー先で見つけたものを、その都度、購入して揃えていったもので、mooiのカーペットのようなコンテンポラリーなものとアールデコのダイニング・テーブルを始めとするアンティークとがよく調和し、どこで聞きつけたのか、何度かカルチャー誌のインテリア特集で取材を受けたこともあった。
 ソファは、ウレタン製のリーン・ロゼのトーゴが気に入っていて、今も橙色のその一人掛けを、冷気が届かない程度の窓辺に引っ張ってきていた。
 代々木公園に隣接していて、窓からの景色は、四階まで高いヒマラヤスギに覆われている。その濃緑の枝をたわませながら、雪は繊細に積もっている。
 灰白色の空を背に、音もなく一定のテンポで続く雪の落下が、やがて蒔野の時間感覚を乗っ取っていった。
 こんな日でも、遠くから微かに建設現場の作業音が聞こえていた。それ以外は、強風にした暖房の音と、組み替える足の衣擦れや小さな溜息、歯の隙間で鳴る唾液の響きなど、彼自身の体の発する音だけだった。普段から静かな界隈だが、今日はまた特別だった。
 静寂。――蒔野はそれを、改めて、なんと心地良いものだろうかと感じた。
「音楽は、静寂の美に対し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。」
 少年時代の彼が、初めて、音楽を概念的な言葉とともに理解した芥川也寸志の『音楽の基礎』。彼は、父と一緒に読み、かつては肝に銘じたその定義的な一文を反芻して、少し首を傾げた。


第二章・静寂と喧噪/7=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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