『マチネの終わりに』第六章(42)
「聡史君、ごめんね。……何か予定があったんじゃないですか?」
十代の頃には、家族同然に親しんだだけに、少しく縁遠くなり、久しぶりに再会すると、思いがけず敬語が口を突いたりと、互いの口調そのものがなかなか定まらなかった。
蒔野は、大丈夫だと言ったが、
「ちょっと、電話してくる。」
と断って公衆電話を探しに行った。
テレフォンカードを買い、久しぶりに手に持った黄緑色の受話器は、懐かしい重さだった。どこに電話すべきか途方に暮れ、番号案内の104を思いついたが、タクシー会社の名前さえわからないのであれば、無駄だろう。知人に助けを求めるにも、そもそも、誰の電話番号も、今はもう記憶していなかった。
蒔野はふと、三谷が何度か、自分の電話番号の語呂合わせを語っていたのを思い出した。受験勉強の歴史の年号暗記を二つ組み合わせたもので、その滑稽な口調そのままに、彼の頭に染みついていた。
電話すると、三谷はどこか賑やかな場所で食事をしている様子だった。
「どうしたんですか?」
「ごめん、休日に。ちょっとケータイをタクシーに忘れてしまって、それがどこの会社かわからなくて。三谷さんの番号しか覚えてなかったから。」
「えー、……自分の番号に電話してみました?」
「あ、……そっか。」
「普通、一番にそうしません? 大丈夫ですか、蒔野さん?」
三谷は呆れたように笑った。
「実は、祖父江先生が脳出血で倒れて、今、赤羽橋の病院にいるんだよ。ちょっと危ないみたい。……」
蒔野は、少しぼうっとした口調で状況を説明した。三谷は絶句していたが、すぐに、
「わたし、行きます、そっちに。お手伝いできることは何でもします。奏(かな)さんたちの邪魔にならないように、どこか隅の方にいますから。」
と真剣な声で言った。
第六章・消失点/42=平野啓一郎
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