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『マチネの終わりに』第六章(11)

 これ以上関係が拗れるならば、担当を変えてもらった方がお互いのためかもしれない。そうは思うものの、年明けにレコード会社の是永が担当から外れたばかりだったので、さすがに立て続けとなると、自分の態度を疑う気持ちが強くなった。木下音楽事務所の中で、他に担当してもらいたいスタッフがいるだろうかとも考えてみた。そして、結局、三谷以上に自分の音楽に対して熱心な人間は思い当たらなかった。
 蒔野は、思いきって仕事を整理し、自分を根本的に立て直すための練習をしたいと考える一方で、そんな闇雲の期待には懐疑的でもあった。
 コンサートがあり、レコーディングがあるという日常が作り出すテンポの中で、もう二十年も演奏家としての技術を維持してきた。そうした外的な関与を排すれば、何か飛躍的な向上が得られるというのは、どことなく漫画染みた、苦し紛れの夢想のようでもあった。実際は、ただ途方に暮れて、だらしなくなってしまうだけではあるまいか。
 年齢的に、今より豊かな音楽性が求められてゆく時に、そうした引きこもり的な“自己との対話”は、恐らく逆効果だろう。
 実際、リサイタルをすべてキャンセルし、レコーディングも中断したままであるので、スケジュールには、例年になく余裕があり、その手帳の白さには、不安な眩しさを感じるほどだった。練習時間は必ずしも少なくはない。が、彼の困難は、そうしたがむしゃらな方法では克服できない類の停滞に陥っていることだった。
     *
 洋子のリチャードとの婚約解消は、なかなか先が見えないまま長引いていた。

 さすがに、ただの恋人とのケンカ別れのように、もう一切連絡を取らないというような終わらせ方はしたくなかった。到底、諦めきれない彼からは、その後も頻繁にメールが届き、その幾つかには、情に絆されるものがあった。


第六章・消失点/11=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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