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『マチネの終わりに』第六章(28)

 しかし、話を聞き進めていくうちに、段々と、何も知らないのは自分の方ではないかという気がしてきた。
 自分は一体、蒔野のために何が出来るのだろうか? 自分の彼への愛の実質とは何なのだろうか、と。
 演奏活動について、それとなく尋ねてみても、蒔野はただ平気そうに、「うん、まァ、いつも通り。」と答えるだけだった。そして、その語られなかった苦悩を、どこか仄めかしているかのように、何度となく、スカイプを通じてのこの会話に、自分がどれほど大きな幸福を感じているかを語った。
 洋子はその度に、彼の存在を、彼女自身がまだ知らなかった心の深い奥底で感じ、喜びに浸った。そして、これほどの愛に満たされていながら、イラクでの体験から逃れられない自分が悔しかった。
 彼の中で、何もかもを捨て去って、ただ安らぎを得たい気持ちと、自分こそが彼の安らぎでありたいという気持ちとが、鬩ぎ合っていた。――しかしその二つは、そんなに矛盾することなのだろうか? 側にいられさえすれば、二人はただ、互いのぬくもりの中で、言葉もなく、両ながらにその役割を果たせていたはずではなかったか?
 洋子は初めて、三谷という女性に嫉妬を感じた。
 蒔野を主人公とするその人生の中では、自分もまた、確かに配役を与えられているはずだった。ところで、その監督はどこにいるのだろうか?
 洋子はふと、自分だけは、他のみんなが持っている脚本とは、違うものを手渡されているような不安を感じた。そして、慌ててページを確かめるように、現在を見つめ直し、過去を振り返り、八月末の彼との再会の場面を、何も間違っていないはずだと自らに言い聞かせながら思い描いた。
     *

 蒔野は、洋子と休暇の計画を話し合って、最初の三日間は東京でゆっくり過ごし、そのあと、一緒に彼女の実家のある長崎を訪れることにした。


第六章・消失点/28=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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