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『マチネの終わりに』第二章(6)

「文化村ですよね?」
「そうだよ!」
「そっちじゃなくて、こっちです。」
「え……?」
 彼は、指さされた方向を訝しげに見つめた。そして、自分の行こうとしていた道を振り返ると、かっとなった分、余計に恥ずかしくなって、彼女と目を合わさないまま早足で歩き出した。
      *
 蒔野の許には、翌日の朝一番に、レコード会社のジュピターから電話があった。改めて今後の方針を話し合うことになったが、連絡してきたのは、是永ではなく上司の岡島だった。
 蒔野は、この人を苦手にしていた。アマチュア・オーケストラでヴィオラを弾く妻と、毎年、夏にはバイロイト音楽祭、正月はウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートと、仕事とは無関係に、ただ音楽を聴くだけの慌ただしい日程で足を運ぶような、業界でも有名なマニアだった。電話のやりとりとしては少々短すぎたが、こちらに気をつかって余計な音楽談義が始まらないうちに、蒔野は早々に話を切り上げた。
 前日の予報からやや遅れて、深夜から降り始めた雪は、明け方にはすっかり街を覆い尽くしていた。
 もう二月だと、彼はカーテンを開けながら物憂げに考えた。つまり、今年はあと十カ月あまりしかないのだった。そこから更に飛躍して、そういうことが、せいぜいあと三十回ほども続けば死ぬということを考えた。母は六十代、父は七十代で死んでいるので、蒔野は自分もあまり長生きはしないだろうと思っている。そして、その三十回ほどという数は、ただ減る一方であることを考えるならば、もうあまり漠然ともしておらず、豊富とも言えなかった。

 コーヒーを淹れるついでに、ダイニングテーブルのパソコンで、またメールの確認をした。受信ボックスに現れる未開封の太字の送信者名を注視した。澄んだ着信音が、つれなく、これで終わりだと彼に告げた。「Yoko KOMINE」という名前は、やはりなかった。


第二章・静寂と喧噪/6=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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