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『マチネの終わりに』第六章(47)

 座席について読み返して、自分が書いたのではないような錯覚を抱いた。洋子と蒔野とが互いに連絡を取り合っているメールがあり、三谷自身の送信した仕事のメールがあり、そのあとに、蒔野が自分で書いたメールが未送信のまま残っているかのようだった。

 三谷は、なぜか急に眠たくなって目を瞑った。駅に着くまでには、消すつもりだった。現実は現実として進んでゆく。その途中で、束の間、蒔野がこんなメールを洋子に送るところを夢想してみたとしても、誰からも咎められないはずだった。罪悪感に駆られて、自分は結局踏み止まり、すべてをなかったことにして、この携帯電話を無事に蒔野に届けるだろう。そうして、自分の蒔野への愛も、なかったことになる。――

 もし送信したなら? 洋子は、蒔野の世界からいなくなるだろう。消え去ってしまう。ただ親指で、この送信ボタンに一度触れるだけで。まるで魔法のようだった。自分じゃなくても、同じ状況になれば、誰でもきっと、そうするのではないだろうか?

 濡れた革靴を擦り合わせて、三谷は苦しげに溜息を吐いた。瞼の向こうの車内の蛍光灯が眩しかった。

 先ほどの洋子の姿を思い出して、気の毒になった。胸が痛んだが、それもやがては忘れるに違いない。

 自分は今まで、他人よりもずっと真面目に生きてきた。どんな人でも、死ぬまでにはきっと、それなりの罪を犯すはずで、それで言うと、自分の場合、許される罪の重さの制限に対して、まだまだ余裕があるはずだった。

 目を開けると、夕食で酒が入ったらしい車内の乗客たちを眺めた。この人たちだって、人生にそういう後ろ暗い秘密の一つや二つはあるはずだった。

 誰も気づいていなかった。だったら、自分自身がすぐに忘れてしまえば良いことだった。針で自分の指を指すようなもので、恐かったが、一瞬の痛みに違いなかった。

 三谷は携帯電話の画面を開いた。そして、震える指で送信ボタンを押し、また目を瞑った。

 十秒ほどして、とんでもないことをしてしまったと思い、慌てて携帯を見た。既に〈送信完了〉の表示が出ている。一人佇む洋子が、丁度今、着信に気づいた姿が想像された。


第六章・消失点/47=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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