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『マチネの終わりに』第五章(31)第六章 消失点(1)

 二人は、自然と深まり行くことへの躊躇いから、却って長い、いつ尽きるともしれない口づけに浸った。

 ジャリーラの存在は意識にかかっていた。踏み止まるべきで、だからこそ、このままで、互いの存在をより強く受け止めようと、背中に回した両腕に力が込もった。

 それでも時は、彼らの思惑を刻々となし崩しにしていった。二人のからだは、縁から少しずつ、更けゆく夜の一部と化していった。見つめ合い、折々萌す笑みを、熱を帯びた唇で移し合った。ソファに身を預け、しばらく無言で互いの胸の裡を探っていた時だった。突然、ベッドルームで、ジャリーラのアラビア語の叫び声が聞こえ、しばらく苦しそうな呻吟が続いた。

 洋子は蒔野に目で合図をし、蒔野も「行ってあげて。」と頷いた。衣服の乱れを直しながら、洋子はベッドルームに向かい、またしばらくジャリーラに寄り添っていた。

 リヴィングに戻ってくると、彼らはしばらくソファに座ったままで、ジャリーラの今後について話をした。それから、添い寝して、彼ら自身のことを語り、口づけよりも幾らか先へと進みかけたところで、その後も二度、ジャリーラの夢魘のために踏み止まった。

 最後にベッドルームに様子を見に行った時、洋子は到頭、ジャリーラの傍らで眠ってしまった。

 蒔野は予めそれを許していた。彼の方も、しばらくぼんやりと天井を眺めていたが、自分がいつ、眠りに落ちたのかは覚えていなかった。

 ◇第六章 消失点(1)

 帰国後も、蒔野の心の中では、洋子が自らの決断を伝えたあの長い夜の記憶が、絶えず音もなく鳴り響いていた。結局のところ、記憶がいつもそうであるように、瞬間々々の光景がちらつくばかりで、洋子の声やジャリーラの笑い声が蘇る時でさえ、彼女たちの姿は、再生されかけたまま止まってしまった動画のように、それについていくことが出来ないのだったが。


第五章 再会/31 第六章・消失点/1=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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