『マチネの終わりに』第一章(16)
洋子は、長い髪を首の辺りで押さえながら、何度も頷いて話を聴いていた。
「今のこの瞬間も例外じゃないのね。未来から振り返れば、それくらい繊細で、感じやすいもの。……生きていく上で、どうなのかしらね、でも、その考えは? 少し恐い気もする。楽しい夜だから。いつまでもこのままであればいいのに。」
蒔野は、それには何も言わずに、ただ表情で同意してみせた。話が通じあうということの純粋な喜びが、胸の奥底に恍惚を広げた。彼の人生では、それは必ずしも多くはない経験だった。
三谷は、相変わらず納得していない様子だったが、いよいよ重たくなってきた酔いにふらつくようにして、向こうの話に気を移した。
蒔野と洋子とは、それから、店が閉まる深夜二時半まで二人だけで話し続けた。
彼女は、何気なく尋ねた。
「本当は、謝ったんでしょう、新幹線の前の座席の人に?」
蒔野は、目を瞠った。そして、彼女と会って以来、もう何度目だろうというくらい、本当に楽しい夜だと感じながら笑って言った。
「そりゃね。謝るよ、普通は。でも、面白いじゃない、こっちが怒ったって話の方が。」
「だと思った。」
「どうしてわかるの?」
「どうしてだかはわからないけど、……わかった。」
洋子も楽しそうに笑った。蒔野は微笑みを浮かべたまま、視線を一旦テーブルに落とすと、また顔を上げて、
「もう一つ、洋子さんだけが気づいてることがあるね。」
と言った。洋子は小首を傾げて、「何?」と尋ねた。
今日の演奏の不出来だよ、と蒔野は口にしかかった。彼はその深い失意とともに、この夜を、どうにかやり過ごさなければならないはずだった。それが、彼女のおかげで一変した。こんなに明るい、穏やかな気分になれることなど、楽屋にいた時までは夢にも思っていなかった。その幸福を、わざわざぶち壊す必要があるだろうか?
第一章・出会いの長い夜/16=平野啓一郎
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