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『マチネの終わりに』第五章(30)

 しかし、決心は変わらなかった。何度か涙ぐみそうになったが、その権利があるのは彼の方であり、最後まで堪え通した。

 リチャードは、納得せぬまま、来週また来ると言い残して、一旦ニューヨークに戻った。洋子は空港まで見送らず、彼に会うのも、最後にするつもりだった。

 自宅で独りになると、さすがに呆然となった。罪悪感に浸ることさえどこか醜悪で、縋るように、ただ蒔野のことを考えようとした。リチャードに非はなかった。それでも確かに、彼女にとっても、傷は傷だった。

 蒔野の腕の中で、洋子は、精神的にも肉体的にも、今は彼の望むことの一切を受け容れたいという抑え難い衝動に駆られた。彼の中に満たされないものが何も残らないほどに。――それは、洋子が初めて知る、ほとんど隷属に近いような欲望だった。どんな恋愛の始まりにも、彼女は決して、こんな馬鹿げた思いを抱いたことなどなかった。

 蒔野を愛することは、彼女にとって、そうした幾つかの発見だった。彼に愛されるためならば、自分はツアー先で、ただ時折会うだけの女であっても構わないとさえ、一度は真剣に考えていた。

 なるほど、一つの愛の放棄に、この愛は見合うだけのものでなければならなかった。そのためには、彼が不満であってはならなかった。或いは、完全に彼の思うがままの存在であり得るなら、リチャードへの罪の意識からも解放されるのだろうか? しかし、そんな苦し紛れの期待の裏にさえ、畢竟、彼の才能への屈折した、ほとんど裏切りのような憧憬が潜んでいないとは言えなかった。

 洋子は、この時、淫らであるということの、何かしら新しい定義に触れているような感じだった。

 常と異なるというだけでなく、どこか本質的に自分を見失い、自らを相手にすっかり明け渡してしまうような喜び。――その深みの底は知れず、むしろ洋子は、今こそ《ヴェニスに死す》症候群の官能の渦中に呑まれつつあるのかもしれなかった。


第五章 再会/30=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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