白いタオル
小学生の頃のことです。わたしは、2歳年上の兄、母親と一緒に六畳一間の古いアパートの二階に住んでいました。風呂もトイレも共同の木造で、右隣の部屋には新婚の若い夫婦、左隣は母よりだいぶ歳が上に見えるおばさんが住んでいました。おばさんは口うるさくて、お風呂の使い方なんかにも厳しい人でした。風呂を上がるときは、次の人のためにタオルで垢をすくって出ろとか、そういうことを厳しく言う人でした。
母はそこから歩いて数分のところにある、小さな飲み屋を一人できりもりしていました。小学生だった兄とわたしは夜遅くまで二人で留守番をするのが常でしたが、母は「晩は好きなものを食え」とよくお金を握らせてくれました。兄と二人でお好み焼き屋に行き、出てくるまで漫画を読むのは今思っても至福の時間でしたし、露店で蒸し立ての肉まんを買うなど自由があり、決して裕福ではありませんでしたが、その暮らしを辛いと思ったことはありませんでした。
ある日のことです。わたしたちの小さな住まいに、遠縁の母子がやってきました。用事があって一晩だけ、ここに泊めてくれというのです。母はなんでも「良いよ良いよ」と、二つ返事で受け入れる人でした。六畳の部屋にわたしと兄と母の三人でさえ、やっとというところに、あと二人というとなかなかのものです。ですが、それも時代といいますか。当時はそうやって、ないものを分け合う、そういうことも多かったように思います。
その男の子は「よっちゃん」と言いました。親戚といっても初めて会う子でしたから最初は遠慮もありましたが、子供の事です、布団に入る頃にはすっかり打ち解けていました。よっちゃんは同じ年でしたが、うちにやって来ても座卓の前にきちんと正座して行儀の良い、おとなしい子でした。声も小さく、笑う時はころころと笑いました。側から見れば、いつも兄を相手に野球なんかして暴れ回っていたわたしの方がやんちゃ者に見えたでしょう。
その日は雨が降っていました。布団を敷いて寝転がると肩が触れ合うほど狭く、さらには部屋中所狭しと吊るされた洗濯物が上から顔に届くほどでした。湿った空気は部屋中に広がり、いつにも増して冷んやりとした空気が漂っていました。わたしが洗濯物を手で引っ張ってゆらゆらさせると、よっちゃんも手を伸ばして洗濯物を引っ張りました。紐が切れるからやめなさいと、母に怒られましたが、楽しくて仕方がなかったのです。
いつの間にか眠っていたのでしょう。目を開けると部屋は明るい日差しに満ちていました。昨夜の雨は止み、室内に干した白いタオルに日光が反射して、いっそう部屋を明るくしています。よっちゃんは先に起きていたようです。部屋の隅で足を抱えて座っていました。わたしに気づくとよっちゃんは、言いました。
「女の人が立っとった」
「え?」
「女の人が、立っとった」
よっちゃんの話によると、昨日の夜中にトイレに行きたくなって外へ出たのだが、部屋に戻ると洗濯物の間に、女の人が立っていたんだと。
「ウソじゃ。見間違いよ」
「ほんまよ、絶対見た。白い服の、女の人じゃった」
よっちゃんが嘘をつくとは、どうしても思えませんでした。
その日よっちゃんは、母親と支度して早々に出て行きました。
「かあちゃん、そこまで送ってくるわな」
そう言って母はよっちゃん達について出て行きました。遠ざかっていく母の声につられなんとなく廊下に顔を出すと、気がついたよっちゃんがふり返り、控えめに手を振りました。
「女の人が立っとった」
朝のよっちゃんの声がもう一度聞こえた気がして、急に寒くなった。
タオルと、見間違えたんよ。
きっとそうに違いない。
背後の気配は洗濯物のせいにして、わたしは走って母を追いかけました。