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爪を切る音

「ね、ほら」
アキちゃんがそういうので耳を澄ますと、確かに

パチ、、パチ、、

と音がする。
それは小さな音だった。
「ね?」
彼は軽い調子で言うのだが、わたしは驚きを隠せない。
「気づいたのいつ!?」
「んー、ちょっと前から。」


アパートにアキちゃんが転がり込んできたのは3ヶ月前。大学卒業してお互い就職はしたのだが、その半年後には無職になってしまったアキちゃんの面倒を見ることになるとは思ってもみなかった。仕事を終えて家に帰ると彼が、しかもジャージ姿のまま朝と同じ様子で座っているのを見ると、あまりの頼りなさにため息が出る。一時は別れも考えたのだが、学生時代からの付き合いでなんとなく切り出せなかった。そもそも喧嘩は滅多にない、何もなければとても居心地のいい相手ではある。わたし達の関係はずるずると続いているのだった。


一人でいた時は、全く気がつかなかった。
襖で仕切った隣の部屋から、音は確かに聞こえてくる。
アキちゃんはこの音に気付いていた。

布団に寝転んだまま、二人で音に耳をすませた。
部屋は豆電球のオレンジ色だけがぼんやりと浮かんで、不気味なくらい静かである。

パチ、、パチ、、

大きな音ではないが、襖の向こうに確かに聞こえる。
「ルーターとかさ。そういう機器の音じゃないの?」
「違うと思う」
普段の物腰の柔らかさとは反対に、アキちゃんはバッサリと否定した。
「ほら、不規則でしょ」
確かに注意して聞いていると

パチ、、パチ、、、、パチ

ゆったり刻む音は時々、少しだけリズムを崩すのだった。


都会の住宅地として有名なこの場所は治安がいいし、好条件の割に家賃もまあまあ。ここは内見した中の3軒目だった。
「こんなに明るくていい部屋なのに、意外と家賃、お安いですね?」
わたしは付き添いの不動産屋の男性に尋ねた。先の2軒と家賃はさほど変わりがないのに、日当たりがよく駅にいちばん近かったから。
「もしかして、以前何かあったとか…?」
事故物件のことを指して暗に聞いてみたが
「いえ、そういうのはこちらも報告義務がありますから。でもここは、そういうのはないみたいですね。強いて言えば、築年数でしょうか」
手元の書類をめくりながら彼は言った。確かに、築40年越えと古かったが、内装は新しくしたばかりとのこと。壁紙も綺麗で文句はなかった。入ってすぐにシャワーとトイレとキッチン。続いて部屋が二つ、奥に繋がっている縦長の2Kの間取り。住み始めてからもテレビ番組で目にするようないわゆる怪奇現象はなく、無事に社会人一年目は始まった、と思っていたのだが。


「機械だってずれるんじゃない?メトロノームにも誤差があるみたいに。」
「でもおかしいのはさ、昼間は聞こえないんだ。」


普段引きこもっているだけはある。この音が日中は聞こえないことにもすぐ気づいたのだという。
アキちゃんはそういう存在を否定しなかった。そして大して怖がりもしなかった。以前、彼が幼い頃体験した不思議な話を聞いたことがある。実家の磨りガラスの向こうに白い手を見たという話。絶対人がいるはずのない場所に、その手は見えたのだと。わたしはその時も「見間違いじゃない?」と信じなかったが、彼は「絶対見た」と曲げなかった。


「爪を切る音に聞こえない?」


アキちゃんのそれを聞いて、わたしは黙って布団から起き上がり勢いよく襖を開けた。
絶対、音の出どころがあるはずだ。
襖を引く、ザッ、という音が、静かな部屋に響いた。飲み込むような真っ暗な隣室に、安い合皮の黒いソファーとテレビの輪郭だけが辛うじて見える、それはいつも通りの部屋だった。

でも音の出どころを確かめることはできなかった。さっきまで聞こえていたはずの音が、ピタッと止んでしまったからだ。

わたしは黙ったまま襖を閉めて再び布団に入り、アキちゃんの隣に寝転んだ。
その時

パチ、

とまた音がした。
「ほらね」
「ほんとだ」
わたしは納得せざるを得なかった。



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