私がANAを辞めた理由
あの、今日は改めてなんですが、私がなぜANAを辞めたのか自己紹介したいと思います!!
私は、フリーランス7年目のグローバル人材教育の講師です。教育は4種類です。
①グローバル人材基盤形成教育
主に若者向けに、主体性・ビジョン・多様性・協調性を養う教育です。グローバルなど環境問わず自分や仲間の能力を活かし活躍するための基盤作りをします。
②多国籍組織のための異文化教育
外国人スタッフが教育を受けるものという前提を見直し、組織のビジョンと日本人スタッフの受け入れマインドを準備した上で、外国人スタッフ教育をして、同時に内製化サポートをします。
③地域異文化セミナーと地元講師養成
「住んでよし、訪れてよしの国」を目指したセミナーです。地域がビジョンをもとにチームとなることと、その連鎖で更に心豊かな日本になることを願っています。
④外国人接客教育
外国人のお客さま対応教育です。グローバルCS、VIP対応、トラブル・クレーム対応。
以前、私はANAで18年CAをしていました。CAになりたくて、なりました。フライトも、STAYも、接客も、会社も、同僚も、飛行機も、何もかも好きでした。時差も感じず、足もむくまず、日本時間の夜中にステーキを食べても胃もたれせず、天職でした。
機内ではビジネスマンから名刺をもらい、芸能人と知り合い、広報の仕事でテレビに出て、新聞に載りました。
辛いことは多々ありました。まず訓練が辛かったです。チーフパーサーのデビュー便では、乗客の迷惑行為で飛行機を緊急着陸させました。多国籍スタッフのマネジメントに悩み、どん底に落ち、外国人嫌いになり、肌はボロボロ、みんなが敵に見えた時期もありました。フライト前に、初めて鳥取の母に電話して、「辛いけん、もう仕事やだ」と言いました。
その山を越えると、外国人スタッフの採用や指導を任されるようになり、再び楽しくなりました。会社からは、外国人のお客さまのトラブル対応を評価されたり、品質調査便の責任者に指名されるようになりました。
大変だけど充実していました。でも、同時に、「なにか違う…もう違う…」と心では違和感に気づき始めていました。充実していたから、違和感が霞んで見えました。2年かけて見極めました。その間、幼かった子供が39度の熱が出てもそばにいられませんでした。息子の初めてのおつかいが知らぬ間に終わっていて、主人を責めました。
ANAを辞めると決めたとき、母だけは「まきちゃんの好きにすればいい」と言ってくれましたが、家族はみんな大反対。私は「心配は分かるけど、絶対に大丈夫だから、ね!信じて!ね!ね!」と繰り返し、家族は最後は根負けしてくれました。
心配する家族は正常です。辞めてなにをするか決まっていないのに、私はANAを辞めたのですから。なにをするかではなく、自分の力で次へ進むことだけが、私の中で決まっていました。うまくいく確証はないどころか、辞めてなにをするの?という低次元。でも、私は異常なのか、うまくいく確信しかなかったんです。。。
自分にできることから始め、目の前のことに精一杯向き合い、7年目になりました。紆余曲折という言葉では語り尽くせませんが、今が一番充実しています。私を育ててくれたANAと、根負けしてくれた家族には感謝しかありません。
今なら、なぜANAを辞めたのか、なにが私の役割なのか、分かります。そして、その道を歩いています。このために、今までのすべてがありました。
私が願うことは、たくさんの人が、自分のありのままを評価し、価値と可能性を自覚し、ビジョンや夢をもちたければもつことです。そうすれば、その人たちは、他者のこともありのまま評価し、他者の価値と可能性も信じられて、他者の夢を応援できる。それが、多様性が自由に行き交い、みんなが能力を最大限に活かせる組織や社会につながる。受け入れと思いやりが世の中に広まる。争いが消え、共栄に変わる。
なにを大きなことを言っているんだと失笑されるかもしれません。でも、自分の価値と可能性を自覚する人、若者たちは、そのくらい普通に成し遂げていくと感じています。そんな人が一人でも増えてほしい。だから私は、グローバル人材教育をしています。
結論。私がANAを辞めた理由は2つ。
1.心が「もう次へいこう」と言ったから
2.子供といたかったから
※写真は10年ほど前、育休明けの初フライトで、スカートのフックが無事はまり、ひと安心した日です。。