見出し画像

岡島かな多さんとある日のこと。

ある日のこと。
朝起きて、寝ぼけ眼なままテラスに出たら、そこに岡島かな多がいた。
「あ、いらっしゃい」と、僕はその人が誰なのかわからないまま挨拶をした。

あれ?どこかで見たなあ・・・フェイスブックっだったかな。でもリアルで会ったことないよなあ。なんでハワイの我が家にいるんだ?お客さん?

するとかな多さんが言った。
「平野さん、わたし、一度平野さんに私の投稿をシェアしてもらったことあるんです。わたし、フォロワーです」

思い出した。岡島かな多、ミュージシャン。
僕は会ったこともない彼女の記事にものすごく惹かれてシェアしたことがあった。もう数年前のことだ。そんなこと、覚えてくれていたんだと驚く。
で、かな多さんもずっとフォローしてくれていて、かなりいろいろなことを追いかけてくれていた。嬉しい。

「いやぁ、こんなところで会えるとは、あはは」。いや、普通なら会えるわけないだろ。でも僕の妻は当時音楽ディレクターで、もともとかな多さんとは仕事仲間であり、仲が良かったのだ。で、ハワイでレコーディングをするので彼女が我が家に立ち寄っていた、ということらしい。

会いたかった人が起きたらそこにいた。
コロナ禍の前の我が家は来客が多かったから、そういうミラクルがたまに起こっていた。

僕が岡島かな多をなぜ気になったかというと、それは投稿から醸し出される「楽しく音楽をつくっているな」という空気だった。それがなぜか普通じゃなくて、とびきりに素晴らしい感じがした。だからシェアした。心の中に風が吹いた気がした。

それからちょくちょく投稿をチェックした。でもかな多さんはそれほど投稿しないので、半年に一度とかぐらいの頻度でスタジオで作詞や作曲している様子の投稿があると、必ずいいね!をつけていた。

そんなかな多さんのロングインタビューが昨日、掲載された。ぜひ読んでほしい。

それからまた二年ほど経ち、僕はいろいろな仕事がうまくいかなくなって悩んでいた。突破口が必要だと思った時に思い浮かんだのが、かな多さんだった。

なぜか思った。「かな多さんの話が聞きたい!」と。理由はない。ただの直感だ。そして理由をつけて東京に行ったときに、一瞬我が家ですれ違ったぐらいの距離感だったわけだけど勇気を出してアポイントをとって、表参道で一緒にお鍋を食べた。

まともに会話をするのはこれが初めてだった。
しかも何の要件なんだ?って思われたかもしれない。用事ないんだもん。

でも僕はそこで大きな示唆をもらうことになる。
彼女がなぜ音楽をやっているのか、コライトと呼ばれる音楽の作り方、考え方、すべての話が面白かったし、新鮮だった。

コライトは、二人か三人でチームを組む。トップライン(メロディ)をつくる人と、トラックメーカー(リズムやサウンド全体をつくりあげていく)に分かれて息を合わせてつくっていく。
歌詞が先に出てくることもあれば、メロディが先のこともあるし、トラックが先のこともある。あるいは順番関係なく、手探りでいったりもどったりしながらやがて曲らしきものが生まれていく。

かな多さんは、ふらっと海外に行ったりもするんだけど、例えばネットで気になっていたロンドンのミュージシャンに「今、ロンドンいるんだけどコライトしない?」とDMしてみたりすることがあるらしい。なにそれ、なにその自由。そうすると「いいねやろうぜ」みたいなことになって、旅から帰ってきたら何曲かできてて、コライトした仲間が増えている。

なにそれ。すごくね?めちゃよすぎでしょ。

僕は、彼女の話を聞いているうちに、彼女が音楽をつくるような感じで、何かをつくりたいと思った。切望した。変わりたいと思った。
このときから僕にとって、ゼロから何かを生み出すロールモデルの一人が、岡島かな多になった。僕の心の中に強烈に「音楽を作るように何かのプロジェクトをつくりたい」という渇望と憧れが生まれた。

僕は音楽をつくれない。でも音楽をつくるように、何かをつくりたい。

そのあと、中老の男(70)との出会いがあった。
彼もまた音楽家ではないが、ロッキングオンを創刊し、常にサブカルチャーの最前線にいるフィクサーだ。

彼は言った。
「4人で世界は変えられる。ビートルズのように。すべてはバンドだ。バンドをやろう(音楽に限らず)」。

この一言と、岡島かな多から得たインスピレーションが僕の中でつながった。「何をどうやったらいいのか全くわかんない。でもこの方向だ。この感覚を失わず、どんどん育てていくんだ。バンドだ、コライトだ、音楽のように、音楽ではないものを生み出していくんだ。作るのは組織じゃなくてバンドだ。もしくはセッションをするんだ。今までの成功体験は全部捨てて、もっとピュアに向き合うんだ。」

一気にいろんな思いが込み上げてきて、僕は心の中でふたりに感謝した。

でもそこからがなかなかしんどかった。
そもそもが生き方に迷っている時期だったし、コロナ禍でハワイに軟禁状態が続いたし、仕事もうまくいかない。そこから辛い時期が何ヶ月か続いた。

そんな中でも何かをつくりたいという気持ちがあって、僕は自分で詩を書き、それに映像をつけて、人類誕生から今までの人類の心の旅の様子を一つの作品にした。ソフトウェア屋だった僕。本格的なポエムなんて書いたことなかったので、果たしてこれは作品と呼べるものなのかどうかわからなかった。でも僕は精神的に一番辛く孤独なときにこの作品づくりに没頭していて、心の拠り所だった。

そして今年の正月明け、僕は偶然にも日本にいて、かな多さんと、生まれたばかりの赤ちゃんと旦那さんと、そしてこれまた僕が尊敬する女性の木工作品づくりの師匠の森川さんで会える機会があった。

話が盛り上がって、「うち来る?」ってことになり、かな多さんと旦那さんのお宅にお邪魔した。そこで僕はずっとひとりでコツコツとつくっていた映像作品を観てもらった。僕は怖かった。結構精神が病んでいるときにつくったものだったし、途中、結構辛い批判もあって、誰かに観せること自体が恐怖でもあったのだ。新しい挑戦をすることに対してはずっとやる気があるのに、自分がつくったもの、書いたものに対しては、その何もかもに自身を無くしていた。

6分ほどの映像なんだけど、終わった時、かな多さんも、旦那のサワディーも、森川師匠も泣いてくれていた。

伝わった・・・って思った。
まだ何のスタートラインにも立ってないけど、自分に何かまだつくれるんだってそのとき久しぶりに・・・本当に数年ぶりに思えた。ありがたかった。

少し小高いところに建つそのマンションに西日が入ってきていた。気づけば、昼にあったのにもう夕方なのだ。夢中になって何時間も話している。あっという間だったな。

そのあと、それぞれがこれからどんなふうに生きていくのかを話し合った。かな多さん家族はキャンピングカーで子育てしながら音楽を作って暮らすのだという。最高かよ!森川師匠は高知に住んでいて、ものづくりだ。物々交換で暮らしていけないかなって実験プロジェクト「モチツモタレツ (https://mochitsu-motaretsu.morilab.xyz) 」を進めていく。それと今度一緒に森で楽器を作りたいね、とかそういう話をした。

画像1

家族というバンドであり、日常のコライトであり、みんなそれぞれの挑戦をして、遊び、戯れて、この世界を目一杯楽しんで夢中になって過ごしていくのだ、と思った。これが未来だ。

僕はそのための環境づくり、ソフトウェアでできること、コミュニケーションツールを整備したり、こういう小さな経済を回すお手伝いをしたりしていこうと思った。コロナが終わり、やがて新しい時代が来るのだ。その時代をつくるのだ。派手でなくていい。小さくていい。一緒に笑って、リラックスできて、セッションして、そしてやがて年老いてこの世界を去るのだ。

で、そろそろまた会う季節がやってきたんじゃないかなってワクワクしている。そろそろ一緒にバンド、コライトやろうか!はなそー!サワディー(旦那)にも頼みたいことあるし!

かな多さんの旦那さんのサワディーのnote

ここから先は

0字
座員のコンテンツ・スキルを高め、見たこともない世界へ連れていきます。

さまざまな私塾がネットワークされたYAMI大学。橘川幸夫が学部長の「深呼吸学部」もその一つです。深呼吸学部の下の特別学科の一つが「旅芸人の…

甘党なのでサポートいただいたらその都度何か美味しいもの食べてレポートします!