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対話するということ

 近所に住む人や趣味仲間、あるいは家族といった、日常生活で顔を合わせる人たちのことを思い浮かべてみる。その人はどんな人なのだろうか。毎日何を食べ、何時に寝て、どんなふうに朝を迎えるのだろう。どんなことを考えて、毎日眠りに就くのだろうか。

 続いて、その人と交わした言葉を振り返ってみる。何か印象的な言葉はあっただろうか。それはどんな言葉で、それを聞いたときに自分はどんな感想を抱いただろうか。その人と何か大事なことを話すとしたら、どんなことを話したいだろう。

 誰かと大事なことについて話すとき、しばしば私はより良い「対話」をしたいと望む。そうすることで、お互いの考えを深く知ることができると思うからだ。しかしそもそも「より良い対話」とは何だろうか。それを通して私は何を得てきただろうか。

 「みんなで共通の意見を持つこと」や「合意形成」が対話において目指されるものだと思っている人は少なくないのではないか。あるいは「自分の意見で相手を打ち負かすこと」だと思っている人もいるかもしれない。

 では実際に読書会や哲学対話といった、いわゆる「対話」を目的として設定された場では、どのようなことが起きるのだろうか。

 たとえば共通の課題本を読んだ上で参加する読書会では、参加者は全員同じものを読んでいる。哲学対話では、参加者は共通したテーマをもとに共通したルールに則って対話を行う。それなのに、人によって課題本に対して抱く感想や、テーマについて考えることはそれぞれ異なり、したがって参加者から出る意見も多種多様である。つまり読書会や哲学対話に参加することで、参加者は新たな発見をし、そのことにより衝撃を受けることもある。それを通して他者と自分は「違う」ということを突きつけられるのだ。

 対話はおそろしい。他者との圧倒的な「違い」に気づかされたとき、私は独りだという事実を突きつけられる。だからこそ、対話は深く他者を知り自分を知るためのいい機会となり得る。したがって一つは、対話をすることで、他者との「違い」が明確になるものがよい対話と言えるのではないか。

 では、読書会や哲学対話のような、その場で参加者がすぐに応答し合うものばかりを対話と呼ぶのだろうか。私たちはそういった場に参加しなければ、対話を経験することはないのだろうか。

 たとえば親子関係を振り返ってみる。思春期になって、親も子も、私の進路について何かと考えるようになった。そんなとき、うちの親は私にこう問うた。「お前はどんなふうに生きていきたいのか」と。私は、親が示した問いに対して、「こうじゃないか」「いや、やっぱりこうじゃないか」と考え続けた。不本意にも関わらず、それは学校卒業後の進路が決まった後も続いた。

 つまり、 長い時間をかけ、時には半永久的に繰り返し問い続ける「問い」が生まれたとき、日常会話も対話と呼ばれるのではないだろうか。

 これは読書における著者と読者の関係にも似ている。本を読んだとき、分からないことが生まれたり、心のなかにモヤモヤが生まれたりする。それはすぐに解消されるものではないが、それを抱えて生きていると、あるいはそのことを一旦は忘れてしまっても、ある時ふと、「あれはこういうことだったのではないか」と閃くときがある。

 そのように、問いを中心に据えた両者が、長い時間をかけてじんわり応答し、呼応し、響き合っていく、そういうものをよい対話と呼ぶのかもしれない。

 もう一度、冒頭で思い浮かべた人のことを思い浮かべてほしい。その人のことをもう少し深く知りたいと思うのであれば、一緒に読書会や哲学対話といった対話の場に参加してみるのもいいかもしれない。もしくは、その人と交わす日常会話のなかで、二人で共有できるような問いを何気なく問いかけてみるのもよいかもしれない。日常生活で顔を合わせる人たちとより良い対話を試みることで、自分の暮らす世界に奥行きを与えることができることだろう。

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