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ピアノを辞めた-2024年5月3日の日記(実在しない誰かの日記)

 ピアノを辞めた。

 小学4年生のとき、みんなが持っているキャラ物の文房具を欲しがる感覚で「ピアノをやりたい」と申し出たら、母は「ほんとうに続けられるの?」といぶかしそうな顔をしながら近所のピアノ教室に申し込んでくれた。わたしはその日、音楽室でクラスの子の前で演奏する自分を想像しながら、鼻歌まじりで母に促されるまでもなく素早く入浴を済ませて、翌日の登校準備をした。

 はじめてのレッスンの日、ランドセルを家に置くとすぐに、母があらかじめ準備してくれていたお月謝袋をレッスンバッグに入れて家を飛び出した。防音されたレッスン室に入ったときは胸が高鳴って、このまま死んじゃうんじゃないかと思ったくらい。教室の隅に置かれたアップライトピアノの前に座ったときは不思議と心が落ち着いて、まじまじと鍵盤を見つめてしまった。

 でも、すぐにレッスンは「つまんない」とわかった。わたしは「曲」を弾きたいのに、指の運動など「基礎」ばかりやらされる。曲を弾くために必要な訓練なんだってわかってるけど、おもしろくない。ちょっとは楽しいことをやらせてほしかった。

 少し曲を弾けるようになっても、自宅で練習していると父が「お前は自分が弾けるところばっか繰り返して、それじゃ練習の意味がない」と小言を言う。大人の反応に、なんだかくさくさしてしまった。まあそんな調子だから、一度だけ出た発表会でも、いつもつまずいていたところでつまずいてしまったし。学校で同じクラスの優等生も同じ教室に通ってて、その子がわたしの前の時間にレッスンがあって、待ち時間にその子の練習風景を見ていると、先生がわたしといるときより楽しそうなのも気に食わなかった。なんかとにかく楽しくなかったんだよね。

 でもずっと「辞めたい」を言えなかった。兄がずっと続けていたサッカーを辞めて野球を始めたとき、母が「あの子はワールドカップを見たらサッカー、大谷が活躍すれば野球で、移り気ね」と評するのを聞いてしまったからだ。わたしはピアノを「つづけられる子」でいなければならない、と思ったの。

 だけどわたしは中学生になって、もう、どうしても、なにがなんだって、辞めると決めたのだ。だれがなんと言おうとよ。それには知恵を絞らないといけない。そこでわたしは母に「ピアノの先生がいじわるするの」と告げた。「失敗したら、ピアノの蓋を閉めたりするの」。もちろんそんなことされたことないけれど。そしたら母は意外とあっさりとわたしの言うことを信じて、辞めることを許してくれた。「ただし自分で言いなさい」と添えて。

 最後のレッスンの日、「辞めたいんです」と伝えたわたしに先生は「なにか理由があるの?」と尋ねた。言葉に詰まって押し黙ったわたしを見て、先生は唐突にはっと何かを悟ったような表情をした。「もしかして……お母さんに無理やり辞めなさいと言われたの?」

 わたしは心の中で(ちがう)と思った。だけれど、なぜか涙があふれ出て止まらなくなって、それは先生の言うことを肯定してしまう行動だと理解していたけれど、なにも言えなかった。

 「先生からお母さんに話してあげるね」そう先生は言って、パンダの着ぐるみのキーホルダーをわたしにくれた。着ぐるみを脱がすとサルになるやつ。

 数日後、たぶんだけど、母にも先生にもわたしが嘘をついたことがバレたと思う。でもなぜか二人ともわたしにはなにも言わなかった。とにかくピアノを辞めたい、その気持ちを叶えることはできたけれど、ほろ苦い後味だけが少しわたしの胸に残った。

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