見出し画像

※ネタバレ有り 『/am/bell/oup.』【感想編】-千変万化する舞台(もしくは何か)との付き合い方について-

本記事には劇団せきあおい さんの第3回企画『/am/bell/oup.』に関するネタベレが含まれます。本記事は観劇後に読まれることを推奨いたします。
以下本文↓






どうも、ひらきた です。
本日は前橋市芸術文化れんが蔵にて開催されております、劇団せきあおい さんの第3回企画 「/am/bell/oup.」を観劇してきましたので、その感想を述べて参りたいと思います。
ちなみに私は27日の17:00の回を観劇しました!


概要

本作の概要については、私の口から説明するよりも、劇団せきあおい さんから出ているパンフレットのポストに目を通してほしい。その方が正確である。決して、概要をまとめることが面倒くさいわけではない。


無理矢理考察・解釈をしてみる

 本作のミソは収拾がつく範囲内での即興性であると言えるだろう。脚本というものがありながらも、その読み方やアドリブによって、もともとあったハズの物語性・文脈が見事に崩壊している。それにより自分の中で腑に落ちる解釈(真実)の構築ができなくなっている。そのことは頭の片隅に入れつつ、やはり私は往生際が悪いので、無理矢理にでも本公演の考察・解釈を行いながら観劇した。

 本作において、舞台上で1番俳優らしい動きをしていた(脚本などの指示によって動いていそうだった)のは照さんであったといえるだろう。このことから、ここでは照さんを「俳優」として定義したい。
 本作という無茶苦茶な舞台の脚本・演出は、劇団せきあおい主宰のせき さんが行ったものである。役者側からすると通常の舞台のように演じることはできない。舞台上における照さん(俳優)のせきさんに対する態度は、せきさんへの反発と捉えることもできる。
 関さんが照さんによって連れて行かれるというラストでは、まるで一件落着かと思われるような曲が演奏されていた。
 この光景は、俳優によるせきさんに対するのクーデターの成功と捉えることができるだろう。

 作中で照さんに拷問?詰められた?せきさんは、一見、脚本・演出としての権力を失っているかのように見える。しかし、その流れを作っている(指示している)のは、あくまで脚本・演出を担当しているせきさんである。
 このため、実際には俳優によるクーデターは起きていない可能性が高いし、クーデターが成功して一件落着と思われたのも、たまたま即興で演奏された音楽のせいである。

 つまり、これまでの解釈は穴だらけということだ。舞台上では信用できる情報が「脚本、演出のせきです」とせきさんが言ったこと以外ない。それ以外は、本当かもしれないしフィクションかもしれない。少なくとも観客は判断できない。
 本公演では、様々なものの文脈が壊れている。私は観劇時に文脈が崩壊している中で、なんとか物語性を見出そうとして上記のような解釈を行ったわけであるが、それはあくまで私の無理矢理な解釈に過ぎない。むしろ、解釈と言えるほどの根拠が存在しないため、上記のものは「解釈」というよりも「妄想」や「詭弁」という言葉の方が当てはまるだろう。

 これらのことから、本作品はどんな解釈しようとも、脚本の文脈の崩壊・俳優の演じ方、即興性等により、解釈の妥当性を失ってしまうのではないかと考えられる(妥当性のあるのであればぜひ聞きたい)。
 そのため、先に投稿した「※ネタバレ有り 『/am/bell/oup.』【解釈編】」では「特になし」と記述させていただいた。


本作はどう見るべきなのか

 ここでは、本作との見方、付き合い方について記述していきたい。
 本作は大きく分けると、以下の4つの要素に分けることができると私は考える。

1.生方さんと七五三木さんの秩序のあるアドリブ劇
2.羽鳥さんの変なリズムの語り
3.主宰であるハズのせきさんが雑に扱われること
4.演奏

 通常、演劇を観る際、少なくとも私は物語を論理で捉え、そこから様々な解釈をしていく。しかしそれを阻むのが本作である。すると、本作はいかにして楽しめば良いのか。
 頭を空っぽにしてこれらの要素が同じ場所でたまたま起きているものとして見る。もしくは、どれかしらの要素以外を、排除する(ずっと演奏だけを聴き、役者の声は雑音と捉える。せきさんの扱いを楽しむ。)といった見方の方が、的外れな解釈(妄想・詭弁)は生まれなくなるので、これらの方がもしかしたら本作品の健全な楽しみ方なのかもしれない。
 また、私からしたら難易度の高いことであるが、舞台上(空間内)で繰り広げられることをもはや"そういうもの"として捉え、その世界観を楽しむという行為ができれば幸せだろうとも思う。

おわりに

 本作は解釈ができない構造になっているということ、その作品の楽しむためにはどうすればよかったのかということについてここまで述べてきた。私は明日の(記事の見直しをしている間に日付が変わってしまい本日となった)28日の講演も観劇するよていである。では、先ほど述べたような態度で本作を観劇するのか。答えは"NO"である。
 人は考察・解釈をする上で、自分が府に落ちる情報を選択し、それをつなげる。それがポストトゥルースにつながり、批判の対象になっているのであると推察される。私は演劇に明るくないが、そういった意味では非常によくできた舞台であったと思う。
 一方で主観的な話にはなるが、私はという人間は、府に落ちる事実を得ない限り言語化困難な不快感を持ち続ける人間である。つまりは、あるものを"そういうもの"として受け入れるのが非常に苦手である。真実を見出すことはできないという事実を前にしても尚、大変に愚かなことではあるが、見つからない真実を探し続けたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?