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"公共"を作るのは行政か?市民か?〜「ポイ捨て」は私さえ良ければいいという個人主義の現れでは〜

先日、コンビニの前で、タバコを吸いながらお菓子などを食べている集団の、流れるようなポイ捨てを見て、嫌な気持ち(残念な気持ち?)になったので、なぜ嫌な気持ちになったのか考えてみた。


ポイ捨てに賛成か、反対かと問われれば、多くの人が反対だと答えると思う。でも、それはなぜか?

道が汚れるから?条例で禁止されてるから?ポイ捨て禁止の標識があるから?変な目で見られるから?


どれも正解だと思う。


ただ、僕が感じた違和感は、ポイ捨てする人たちは、絶対に家ではポイ捨てしてないだろう、という矛盾である。

要は、自分の家ではしない行為を、わざわざ他の人も使う場所でやっているのが不思議でたまらない。

だから、公園でポイ捨てをしてる人を見て、残念な気持ちになる。


大学生の時に東京に行って、新橋のSLの周りを見て、あの場所が嫌いになった。

とにかくゴミが放置されまくってる。それも、たまたまそこに落ちたとかではなくて、そこで缶ビールを飲んでいた人たちが、置いていったのである。

本当に残念な気持ちになったし、社会人でもこんな人がいるのかと、本当にがっかりだった。


でも、そもそもなぜポイ捨てをしてはいけないのか?

親からそう教えられてきたから?街で禁止されているから?


「ポイ捨て」と簡単な言葉で表現されてるが、火災や漂流・漂着ごみ、野生動物の殺傷にも繋がるケースもある。

それでもなお、ポイ捨てをする人の気持ちがよく分からない。「私はなんとも思わないからいいでしょ。私にとってはデメリットがない。」という個人主義の現れな気がしている。


そしてゴミは、街の景観や環境にも大きく影響する。ゴミ箱やゴミ捨て場に捨てられなかったゴミは、誰かが拾ったり、清掃されている。


公共の場は誰が作るべきなのか?親切な誰か?行政?


立教大学大学院教授の内山節さんは、著書『「里」という思想』の中で、「公共」について、こう語られている。

私が上野村に滞在するようになった頃、村人が使う「公共」という言葉に関心をもったことがあった。「それは公共の仕事だから」とか、「それは公共のことだから」というようなかたちで、村人は何度となく「公共」という言葉を使う。ところが村人が使うこの言葉の響きは、それまで私が東京で感じていたものとは少し違っていた東京で「公共」といえば、国や自治体が担うもの、つまり行政が担当すべきものを指していた。それに対して私たちは「私」であり、「私人」であった。
だが村人が使う「公共」は、それとは違う。「公共」とは、村では、みんなの世界のことであり、「公共の仕事」とは、「みんなでする仕事」のことであった。だから、春になって、冬の間に荒れた道をみんなでなおすことは「公共の仕事」であり、山火事の報を受けて家から消火にとび出すことも、祭りの準備をすることも「公共の仕事」であった。

つまり、公共とはそこに住んでいるみんなの世界のことであると。昔の日本人は、みんなそういう認識だったんだと思う。おそらく。


大阪にかかる橋の中には、商人たちがお金を出し合ってかけたものもあると聞いた。これも公共の仕事である。でも動いているのは、行政ではなく、個人の集合だ。


では、なぜその公共が失われていったのか?


それはおそらく、高度な都市化による、"個"へのフォーカスではないだろうか。集合体としての"私"は失われ、個人としての"私"という認識が強くなってきたのだと思う。(これを近代化と呼ぶのだろうか?)


どっちが正解で、どっちが不正解という答えをするつもりはない。さらに、「集合体としても私」と「個人としての私」の両方を持ってる人の方が大半だろうし、それはグラデーションになっていると思う。


でも、これから我々が自分で住む地域でやるべきことは、地域に関心を持って、積極的にまちづくりに入っていくことだと思う。

これは防災の面でもそう。地域のネットワークが構築されていないと、災害時の情報伝達や、助け合いが起こらない可能性もある。


公共 = みんなの世界 という認識が強かった時代にも、ポイ捨てをするような個人主義の人はいただろ!というご意見もあると思うが、もちろんいたと思う。


でも、今回の一件で、改めて「公共とは何か?」を考えるきっかけになった。


公共とは何か?を考える上で、行政とは何か?そして、企業存在価値は?というのも考えることになった。


僕個人としては、地域に住む人がより幸せに、より豊かになることが理想だと思っている。そこにはもちろん個人主義的な考え方の人もいるだろう。


それでも公共という場をデザインするにあたって、住民の税金が使われているのも事実だ。


行政という機関に全て任せっきりの公共という場の担保はあまりにも無責任だと思う。あまりに全てのものが細分化され、分業化された世の中で、我々は本来あるべき公共を見失っている気もしている。


それは経済も同じ。あまりに複雑化された経済の中で、商品の作り手や販売までのプロセスなんて、ほとんど考えずに消費する。


あって当たり前、やってもらって当たり前、お金を払ってるんだから当たり前


そんな考えが蔓延する世の中は、嫌だなぁと個人的には思う。もちろんこれは、個人的な考えの押しつけになるのかもしれないけど、僕はそう思う。

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