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“センス”はどこからくるのか?

先日、Instagramにてこんなご質問をいただきました。

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なんとありがたく嬉しいお言葉なんでしょう。
私の感性を褒めてくださるなんて、もう神様なのかなこの方は…。

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このご質問は結構時間をかけて考えました。
この時の端的な答えは「何もしていない」です。正直なところ、わたし自身がわたしに個性があるかどうかは、わからないので…「これをしたから出せたよ!」が無いです。皆目検討がつきません。

さて。

元来、わたしは頭がいい人間ではないので「センス・個性とは何かしら」という自問自答から始まり、物事の良し悪しを見て選択する感性クリエイティブ(創造性)のことだという結論に達しました。
そして、以前、わたしにとって大きな転機になる言葉をいただいた経験もシェアできる良い機会なので、それならば!とこの場でお返事をまとめようと思いました。長いです。長すぎます。

それでも、読みますか…?(笑)

デザイナー職の先輩が漏らした2つの「センス」

冒頭のご質問に対してわたしの回答を細かくお返事する前に、わたしが新卒で入ったデザイン会社に在籍していた先輩デザイナーの吐露した言葉をシェアさせてください。

その方はその会社ではチーフデザイナーで、産み出すデザイン全てが洗練されているようにわたしには見えました。そのことをその方に素直に伝えたとき、返ってきたのは、謙遜でも自負でもなく、自虐にも近い、先輩の本音でした。
その内容はこんな感じです。

センスっていうのはね、ある一定のレベルまでは技術で習得できるんだよ。僕のデザインはその技術で生まれたものなんだよね。
技術でセンスがあるように見せることができるんだよ。
芸術的感性は技術を勉強すれば全員平等に手に入るんだ。でも、本当に「センスがある」人っていうのはその技術では手に入るものの更に上の上にあるものを持ってるんだよね。
そこはねぇ、もう、どう足掻いても、その人が持って生まれたものだから真似できないし、技術だけでは作れないんだよ。
だから、その技術を超えたところで作られたいいデザインをみると、絶対に勝てない自分にセンスがないって自覚させられるから、悔しいんだよね。

これは、当時の独学で手に入れた技術でしか戦えなかったわたしなりに、素直に腹に落ちた感覚がありましたし、いまだにこの言葉はクリエイティブ関わる人たち全てに共通する真理をついているなと思っています。

誰かのクリエイティビティを習得したところで、その時点で「平等に持てる技術」の範囲を超えられない。けれど、先人たちが生み出した高いクリエイティブレベルを持った新規性のあるものから「技術として習得する」ことで、一定のクリエイティビティを維持できる。このジレンマは、何かを生み出す人には必ずついてまわる壁です。

感性は、学び生まれ出るものであり“評価”のひとつ

この体験と自分の経験が手伝って得たわたしの持論は“感性は技術を学ぶことで得るものであり、自然と自分から生まれ出るもの”だということです。そして、クリエイティブかどうかは、自分でジャッジはできません。「わたし、個性があります」と宣言するものではなく、誰かの感性や琴線に触れ、評価を得ることができて初めて形になる…今回いただいたご質問にある「センス」や「個性」とは、結局のところ単なる評価軸に過ぎないのではないかと思っています。なので、このようなご質問をくださった方に、わたしは評価をいただいたことになるのだと思います。本当に、ありがたいことに。

そして、技術によるクリエイティブなのか、新規性とオリジナリティ(個性)のあるクリエイティブなのか?は、その評価の詳細によって決まるようにも思います。

受け手がどう受け取り評価するか、というところこそ、自分にオリジナリティがあるのか、クリエイティビティがあるのかという指標になる…これは古来より芸術家が常に一喜一憂し悩まされ続けていることですね。

そして、先述した先輩のお話では「自分にはオリジナリティのセンスはない」という言葉でしたが、新規性がないという事実はあったとしても、それが誰かにとってオリジナリティがあると感じられ、多くの人が共感すればするほど、そのオリジナリティレベルは“上がる”のだと思います。

何かを産み出したい者にとって、誰もが習得できる技術の域を超えた新規性の高いものを自分が生み出すことを夢見ない者は、恐らく居ないでしょう。それはとても高く厳しい壁で、もし産み出すことができたとしても、その瞬間からそれは誰かにとって「習得できる技術」に変わってしまう状況と常に向き合っていかなくてはいけません。

バッハ、ダヴィンチ、フェルメール、岡本太郎、ココ・シャネル、…歴史に名を連ね、クリエイティブの先端とされる世界的に有名な方たちの生み出したものは長年愛され続けると同時に、後世のクリエイターの新たな技術の模範となっているのは私が説明するまでもない事実だと思います。突出した存在で居続けることは、スポーツ選手が記録を維持するために努力するように日々自分の作品と向き合っていかなくてはいけませんし、何よりもゴッホなどの人生に学べるように、他者の評価に完全に依存する不安定なものに思えます。

何をすれば技術が習得できるのか

では、技術はどうやって習得でき、感性はどうやって高められるのか。

ごめんなさい、何もなし得てないわたしには、正解はわかりません。
歴史に学んでみても、人それぞれアプローチが違うように思います。

私はどうしているのかといえば、ひたすら自分が興味ある世界や、創作されたものを見て、自分がどう感じるのかを考えるというインプットを繰り返し、作り続けることです。といっても、再度申し上げますが、わたしは何ひとつ成し得ていない存在なので、今更ですがこれを発信する権利があるのかもわかりません。(笑

ちなみに、模倣はもっとも多用されている“技術習得”のひとつの手法です。
画家も、先人の絵を真似て描く模写を重ねて技術を高めますし、日本の伝統芸能も、手取り足取り教わることはほとんどなく、先人の技術を盗むように習得し、試行錯誤を繰り返してオリジナルのものにしていくことが多いように思います。
現代は沢山の資料がありますし、Google検索でほとんどの情報が手に入る時代ですが、当時(中〜高校生)は英語の数万円の本しかなかったので、わたしがWEB制作の技術を習得した方法も他者が書いたプログラミングソースを分解研究して真似ることでした。
そもそも、赤子が言葉を喋れるようになるのも模倣学習ですね。
そんなわけで、わたしは、真似ることそのものは悪だとは思いません。ただし、習得した技術そのままで世に出すのは少々違うようにおもいます。己の感性としっかりミックスして磨き上げることをしないことは、クリエイティブという評価軸においては怠惰だと考えています。

ただ、後述しますが商業的という評価軸においては、それもアリだと思います。特許などの権利を侵害しない限りはですが。

とにかくインプットすると何かが変わってくる

“目が肥える”とはよく言ったもので、本当に多くのものに触れるたび、物の良し悪しを自分の感性基準で決められる判断材料が増えていき、様々な技術をしることができていることを実感します。これが自分の審美眼を磨くということなのであれば、多くのものを五感で感じて体験することが何よりも大切なプロセスなのではないかと思います。
わたしはこれを“インプット”と呼んでいます。

審美眼を磨くこと…評価軸と選択肢を増やすことは、自分自身の感性の幅を広げることになり、オリジナリティのある何かを生み出すきっかけの助けになると信じています。

例えば、色彩学を学ぶことで色合わせの知識は深まります。そこに色彩心理学を加えると、色によって引き起こされる感情あるいは動作をある程度誘導することができます。

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黄金比や白銀比の存在も、賛否はあるものの様々な分野で役立つ面白い方程式だと思いますし、これを利用した芸術家がいるのも事実です。元々は数学の世界の視点ですが、事実この黄金比に近いものは自然界にあるという見解もありますし、なにより人間の審美眼を数値化するという視点を生んだ面白い方程式です。

自然界にあるものの美しさは古来から人間を魅了して、多くの芸術を生むキッカケの一つであったとわたしは理解しています。例えば、自然界にある植物たちは基本的には土の中と地上部でシンメトリーを描いていることや、氷や鉱石が物結晶の不思議なシンメトリーなど…
とにかく、学ぶ機会は学校に限らず多種多様です。

自分自身の創作意欲が刺激されるものをひたすらインプットしたり、高めたい技術について名を連ねる人々の産み出したものに触れることこそ「技術で手に入らない個人の持つ感性」の燃料になり、アウトプットのスイッチになるのではないかな。と思います。

表現したいのか、認められたいのか、売れたいのか。

ところで。
自分が作りだすもので、どんな状況に導きたいですか?

ただただ何かを生み出したい衝動で動いていますか?
自分の生み出したもので誰かと感情をシェアしたいと思っていますか?
それとも、とにかく誰かに認められたいと思っていますか?

クリエイティブに関わる中で大事なのは「何を使ってどう生み出してどうなりたいのか」という意思だと思っています。そしてその意思の中に、ひっそりと落とし穴が存在しているように感じています。

人にはない個性を持って、誰もしていないことをしたい

とても意欲的でポジティブな言葉だと思いますがが、ここまで長いこと書きつらねてきたことを理由に、わたしはこの言葉たちは「出口のない迷路」の入り口だと思っています。個性が際立ったとしても、誰からも共感を得られなければ評価も得られず、ただの自己満足です。そして、人と違うことを生み出せる“新規性の高いクリエイティビティのあるトップデザイナー”は、自分から生み出されるものを心から楽しむと同時に、誰も手を差し伸べることができない孤独と戦っているように見えます。

もっとも悪夢的なのは、個性に気を取られすぎて、受け取り手への配慮がない、あまりに自意識過剰で自己満足の創作物になり、閉鎖された空間を生み出すことだと思います。わたしの持論では、受け入れられなければ”オリジナリティ”は存在しないので…

じつは、先輩が言った「習得する技術でセンスがあるように魅せることができる」作品は「商業として売れることを目的として狙って制作ができる」ということも含めて発言されています。なにより、WEB制作会社ですから、新規性よりもなによりもまずそれが求められる世界でしたからこれはこれで、とっても素晴らしい能力です。

商業的に受け入れられるデザインを生み出すことは、一つの技術です。
売れたいと思うのであれば、おそらく個性を追及するより、マーケティングにより売れる作品がどんなものなのか分析して自分の創作物に活かしていくのが良いように思います。

おわりに

大変長くなりました。大変、相当、長くなりました。
最後まで読んでくださった奇特な方、貴重な時間と、読むという労力をわたしの駄文に使ってくださって、本当にありがとうございます。

もし、この駄文が誰かにとって何かのきっかけになれば、とてもとても嬉しいです。きっとご不快に思う方もいらっしゃるのだろうと思います。
何度でも書きますが、わたしは何もなし得ていないので、ただただ机上の空論レベルの持論をたらたらと書き連ねただけなので…

それでも。何もなし得ていない今だからこそ。
この気持ちを大切に、インプットを沢山してわたしの感性を豊かにして、アウトプットした作品が誰かの幸せやちょっとした気持ちが高まる瞬間のお手伝いができたらと、願っています。

もし、よかったら、このご質問に対して読んでくださっている方のご意見があれば、是非したのほーーーうにあるコメント欄やinstagram DMでお聞かせください。シェアしていただくことも、大切なインプットなので!!

ではでは、また次回。
今度はなにをテーマに書きましょうか。リクエストもお待ちしております。

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