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占い師としての過去

自己紹介でもチラリと触れた、占いの話をしようと思います。もしまだ私の自己紹介を読んでいらっしゃらなくてなんの話?と興味をもってくださった方はこちらからどうぞ。

占いに興味がない方には興味のない話題かもしれませんが、気が向いたらお付き合いくださると嬉しいです。
ゴリゴリの神秘主義ではないので、勧誘もいたしません。

理系なのに占い?
まず私の世界観の話から(飛ばしてOK)

ちょっとダラダラとややこしい話をします。いみわからん!となったら次のセンテンスに移行していただいて構いません(笑

私は、理系頭だと自負していますし、実際理系出身です。
筋が通らないと少々不機嫌になります。(笑

ですが、子供の頃より宇宙や恐竜時代に興味があり、人間の精神や行動について疑問が多かっためんどくさい幼少の私は、人類の進化や宗教概念を学ぶことで、その疑問に納得をしようと挑戦していました。この辺りの詳細は本当に面倒なので省きます。別のブログが書けそうなので。

結果、私がこの世界を納得して受け入れる頃には、理系思考でありながら、神秘主義思考も持ち合わせた、有神論無宗教者になりました。面白いもので、理系出身のお坊さんなんて方もいらっしゃるのでおそらく同じような方は少なくないのではないかと思います。

この世の物事は全てある程度体系的になっていて、というか、恐ろしいほどよく出来ていて、恐らく過去の偉人の解釈通り、この宇宙は数学的に説明がつくのだと思います。
ただ、人間の理解と発見を超えた領域が多すぎて、「数学的に説明ができるんだろうけれどここはわからん」というゾーンがほとんどで、この世の全てを解明するには至っていません。

人間って本当にちっぽけなんです、物理的にも、存在的にも。例えるなら、1人の体をこの宇宙と見立てると、私たち人間一人一人は、人間を構成しているたくさんの細胞のなかの核サイズでしかないかもしれないんです。

余談ですが。
この解釈を、ある業界ではマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)と呼びます。コスモスはcosmos…宇宙です。お花のコスモスと同じなのはなんでだろう、調べてなかったです。

余談から戻ります。
全てを理解した気でいると「想定外」が起こるのは、当然の結末だと思っています。宇宙の外側から見ている視点でしか見えない、内側からは理解できないものがあるにもかかわらずそれを見つけようなんて無謀も甚だしく理解の範疇を越えたものは必ず存在します。だって、隣の夕飯すら私たちにはその家の人に聞くか、中に侵入するしか分かり得ないのです。スーパーの買い物だって、今日の夕飯とは限らないし、換気扇から香ってくる香りもカレーの匂いだとしても、カレーライスか、カレー風味のスープか、確実なことはわからないんですから。そして、わからないからこそ、同時にロマンがあるのです。科学者たちが人生をかけて探究していくのも納得がいきます。

数学(あるいは化学や物理)で解明された領域と、解明されていない領域。解明された(と信じられている)領域は、対処ができるので現実主義の方にとってはとても頼り甲斐のある存在です。一方で、解明されていない領域は「人知の及ばぬ領域」なので不明確、不明瞭、説明がつかないので多くの議論が生まれます。懐疑的な人もいれば、陰謀論を信じたくなる人も。でも、どの議論も主張も、答えが出ていない以上仮説や妄想でしかありません。
それってつまり、誰も知らないと同意です。

知らないことを「事実ではない」とは否定できません。わからないことなので、事実ではない証明ができないからです。となれば、世界に沢山溢れている不思議な体験談も、なにもかも、事実ではないと証明できなければ否定する権利は誰にもないのです。

私は、理系頭だからこそ、神秘主義を否定できなくなりました。感情論ならいくらでも討論できますが。「その人にとっての真実」は私にとっての真実ではない可能性は、いくらでもあると気づきました。特に"他人の感受性“の領域については。

宗教については、様々な思想や理念があり、それを侵すことは私の意に反しますので公に文章にするのは控えます。が、私は日本の八百万信仰がとても好きです。八百万信仰の根源は、私の解釈ではこの「解明できない領域」への畏怖と畏敬の念の表れの結果だと理解したからです。説明がつかないものへの恐れ、敬い、救済への願いは信仰を産むのに十分な理由で、その説明がつかない何か不思議な存在や力に、説明がつかないことを理由に神と呼んだ。それでいいじゃない。と思うのです。神とは、そもそも畏怖され畏敬される…そういう存在のことなのですから。

近年では所謂カルトと呼ばれる他人を害する行動を取る団体の存在の影響が大きく、少々狭量だなと感じる言動が目立ってきましたが、多彩な宗教を受け入れ取り込んで己のものとしていく歴史と文化がこの日本にあることは明明白日です。これは他国と比べてかなり明確な『オープンマインド』と呼ばれる理想系です。
こと、神道に至っては太古の昔からフレキシブルであったようで、他の宗教の考えや表現を取り入れています。神道に保守的なイメージができたのは近年のように感じます。

勿論、先程軽く触れましたが、宗教という名のビジネスも、暴徒化する団体も存在することはみなさんご存知だと思いますので、全てに対してその必要はありませんが、こういった理由で、純粋な信仰心を否定する権利は誰にもないことも、忘れてはならない事実です。

そして、はっきりした宗教や神様の名前がなくても、人は自然と、神を想っているように思います。例えば、物事がうまくいかない時に世の中を恨み、逆にうまくいきすぎている時にちょっと怖くなったりします。そういう時、自分の力の及ばぬものに引き込まれてこの状況にあるのではと感じたなら、そこには宗教に縛られていない、その人の自然に生まれるささやかな信仰心が存在しているのだと私は感じています。

そうでなければ、単純に自分の失敗を改めたり努力に自信を持つという現実的行動のみになるのではないかと思うので。

これが、さまざまな神話や宗教経典を読んで感じた、私の結論の詳細です。

そもそも占いはなんのためにあるのか

これは、明確な共通解(明らかに誰が見てもこれが正解だねとなったもの)がないので、終始私の解釈でお話しします。

占いは、太古の昔から存在するものです。私はこの宇宙への畏怖と畏敬の念と共存しようと試行錯誤した結果生まれたのではと想像しています。

言語化できない存在と、なんとかコミュニケーションが取りたいという人の心が試行錯誤した結果生まれたのが占いなのではないかと思うのです。日本語が通じなければ英語を学ぶ!とかジェスチャーで試してみよう!みたいな感覚です。

なんかよくわからない存在との会話の共通言語はなんだろうと模索したり、なんかちょっと合図を送ってもらえないかなと期待してみたり、様々な情報を集めて解析してみようとしたり。

そして上手くいくなら、その恩恵を賜りたい。この人知の及ばぬ存在は私たち以上の知識を持っているか、もしかしたら未来さえ掌握しているかもしれない。それを知ることができれば、あるいは…。

そんな感じでちょっと強欲さが出たりします。でも、人知の及ばぬ領域に何かしらの手段に触れて自分達の生活に取り入れようとするのは必ずしも強欲ではありませんね、順応して生きていきたいという、生存本能でもあると思います。

大きな災害があって、もしそれが避けられるので有ればできることをしたい。触れなくて良い怒り(自然災害)に触れずに済むなら回避したい。

人間ってつくづくコミュニケーションが好きなんだなぁ…とほっこりしませんか。

そんなわけで、占いって、私にとってはコミュニケーションツールです。未来を視て幸せになるというよりは、人生をより楽しく生きていくための、相談相手です。

占いは当たるのか?

私の結論ですが、占いは「参考にする相談相手の一つ」とご説明させていただいています。

占いは、2種類あります。
数学である程度説明できるとされている"統計学的占い"と、全く説明できない"偶然的占い"です。

統計学的占いは、言語化されると神秘主義の存在を感じますが、体系的で、蓄積されていくデータベースを持っています。おおよそ、地形や天体に関わるものが多いです。占星術や四柱推命などがそれに当たるのかな?と思っています。(雑感)また対照的に、エンジェルカードやタロットカード、ルーンなどは、その時にでた結果で占うため、偶然的占いと言えると思います。古代で言えば甲骨占いとか…その時に出てきた答えを誰かからの"啓示"として受け入れます。

血液型は心理学統計なのか、出鱈目なのか、私にはわかりませんが、誕生日占いのベースはヨーロッパ式またはアジア式よ占星術のように思います。

そして、どちらにも不思議なことに、昔から占いの横には心理学者の存在が見え隠れします。ユングはタロットや星や夢を人の精神世界と結びつけて、人の心理の真理を探ります。現在では様々呼び方はありますが、「タロット心理学」や「占星術心理学」のようなジャンルも確立されています。

占いは、出自はもちろん歴史も根拠も様々です。どれが"本当"なのかどれが"嘘"なのかは誰にもわかりません。統計学的だから信用できるとも言い切れません。あくまで「統計」なので、誤差はあるのです。そしてなにより私が扱っているのは、タロットカードに星占いと数秘を軽くミックスしたアレンジ占術です。そう、これはもう大変胡散臭いです。(笑

でも、先述したとおり、私にとって占いというのは、人間ではないけれど、言語が同じではないけれど、自分の過去や現在や夢を俯瞰して現状認識をして今後に活かしていくための行動を助けてくれる、相談相手だったりカウンセラーだったりするような存在です。

当たるか、当たらないか。真実か、嘘か。ではなく、自分がそれを参考に今後どうやって行動していくかということを考える時間にしてくださいと、お伝えしてきました。

そんなわけで、柊屋にとって占いは、当たるのではなく、ヒントや自分の視野を広げやすくするものです。

占い師というよりは、通訳の気分

占い師と言われると、未来を視る力があったり神様やなにかのメッセージを受け取る人のようなイメージがあります。私にはその力はありません。なので、占い師というより通訳というほうがしっくりきますし、占いででた結果は「いくらでも自分で変えられる」と伝えています。

例えば、何かの占いで出たカードが悪い意味だったとしたら、なにかしらの言動でそれが正位置に変えるにはどうしたらいいのかというヒントが得られます。逆にとてもいい意味だとしても、今までしていた努力をやめて立ち止まってしまえばきっと良い状況のままは続かないでしょう。

どんな占いであれ、本人が努力をしなくてはならないことには変わりがありません。人生とは選択の連続。占いは、その選択の捉え方や選択肢そのものを増やしたり確定させる手伝いはできても人生を確実なものにすることはできません。努力こそが最大の味方です。その努力すら実らないことがあるのも現実です。

夢がないでしょうか?でも、この世に困難に立ち向かわなければならない人がいる以上、それは事実のように思います。占いはこの現実の前には無力です。この世の人間全員が幸せを感じられるように世界が動くのなら…きっと今と違う世界があるはずです。少なくとも「自分は不幸せ」と感じる人や、今日の食事の心配をする人は0にならなくてはおかしいです。

占いに依存せずに自分で選択していけるようにお答えしていきたいので、占いの館に所属してリピーターさんを得るというのは、私のスタイルには合わず辞めてしまいました。

そして面白いことに、ただ話をきいて相談にのるよりタロットを使ってご相談を伺うと、かなりの疲労を伴います。お金をいただくからこその覚悟や責任や緊張というのもあると思いますが、占いそのものに、少々精神力を使う感覚があります。

そんなわけで、今はゆるゆると、どなたかの相談に気まぐれにタロットが登場しています。

柊屋の占いは、自分を俯瞰して分析するためのツール

私がタロットを使うことを知っている人からは今も、時々、ご相談をいただきます。結果、とても満足していただけているようですし、わたしのスタンスを理解してくださっているので、同じ内容で何度もご相談が来るのではなく、内容は毎回違います。新たな関係性に、ちょっと視野を広げたい時や考え方のヒントを手に入れたいと活用していただけているように感じています。

わたしの得意ジャンルは性格分析だと思っていて、未来を占うということに関してはご相談はありません。もし依頼があっても現状の確認と性格を見て、今後どうやって向き合っていったほうがいいのかという方法でのお返事はできますし、相談主様もそれを求めていらっしゃいます。先述した通りタロットは偶然に出たカードから答えや指針を導き出す占いなので、先見はお断りしているのです。

人を占うというのは、覚悟がいるのです。その人の人生に、しかも選択の瞬間に関わるのですから。

なかなか大っぴらにはこの仕事についてのお話しなかったのですが、最近色々と占いの話題をする機会が増えてきたり、私の占い師の話を知りたいと興味を持ってくださる方がちらほらいらしたので、ここで今までの自分のことをまとめてみました。

だいぶ長ったらしくなってしまって、ちょっと反省。
でも、説明が難しく誤解を生みやすいジャンルなので丁寧に書きたかったのであえて長さは気にせず書いてみました。

ちょっとでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした❤︎(笑

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