今日のブルース⑪ブラインド・ウィリー・マクテル「壊れた機関車のブルース」(1933年)
これじゃ壊れた機関車 動輪が外れてる
これじゃ壊れた機関車 動輪が外れてる
あんたらもしくじって一人になれば みじめなやつの気持ちがわかる
サイコロふって大博打 負けて一文無し
サイコロふって大博打 ハニー、負けて一文無し
拳銃を質に入れ いちばん上等な服を売り払う
神よ 神よ 神さまよ 神よ 神よ 神さまよ
神よ 神さまよ 神よ 神よ 神さまよ
祈りの地に伏し 膝間づいて祈った
祈りの地に伏し 膝間づいて祈った
神に頼むような俺じゃないが 神さま、カワイイあの娘を返してお願い
あの娘を返してくれるなら あとはお手間は取らせません
あの娘をくれるなら お手間は取らせません
家のなかでなくたって、神さま ドアまで連れてくるだけでいい
神よ 神よ 神さまよ 神よ 神よ 神さまよ
神よ 神さまよ 神よ 神よ 神さまよ
トントン、ぼくがドアを叩く音が聞こえるだろう?
トントン、ぼくがドアを叩く音が聞こえるだろう?
きみはぼくが歩いてくるコツコツという音が部屋中に響くのを聞く
これじゃ壊れた機関車 機関手はいない
これじゃ壊れた機関車 機関手はいない
何だってこんなにあのコが好きなんだろう ジョージア・クロールが踊れるからかな
神よ 神よ 神さまよ 神よ 神よ 神さまよ
神よ 神さまよ 神よ 神よ 神さまよ
これじゃ壊れた機関車 汽笛もベルもない
これじゃ壊れた機関車 汽笛もベルもない
きみがマジで熱い女なら パパにかけられた涙の魔法を祓ってくれ
そうしたら、二度とこないから
ブラインド・ウィリー・マクテルはいろんな意味でモダンだ。カントリー・ブルースをモダン化した人物といえば、何と言ってもロバート・ジョンソンだろう。実際、マクテルとジョンソンは、いろいろな点でよく似ている。当時のブルースとその周辺の音楽のいろいろなスタイルをくまなく吸収し、どのスタイルにものめり込むことなく、混ぜ合わせて、次の進化への土台を据えた点。音楽的には、マクテルはジョンソン以上にモダンだ。女性かと思うほどの甲高い声、時にブルーノートを感じさせない個性的なリフ、12弦+スライドという特異なギター奏法、ロック的とすらいえるリズム。ジョンソンの音楽はルーツが辿りやすいのに対し、マクテルは突然変異的で、彼個人の個性による部分が大きい。
歌詞に関しては、私小説的なリアリズムよりも、多くの人が後付けで思いを乗せやすい、ある意味、空疎な言葉を選ぶという点で二人は似ている。彼ら以前のブルースは、注意深く読めば、必ず特定の現実が生々しいイメージをともなって立ち上がって来るのだが、ジョンソンやマクテルは必ずしもそうではない。「赤いライトは彼女の心、青いライトはオレのブルース」(ロバート・ジョンソン「むなしき愛」)というメタファーに見られるのは、色の違う二つのライトというぼんやりとしたシニフィエと、心やブルースといった捉えどころのないシニフィアンだけだし、「壊れた機関車」で用いられるイメージは動輪、機関手、汽笛、ベルといった機関車といえばだれでも思いつくような陳腐なもので、だからこそ、多くの人がそこに思いをのせやすい。
サン・ハウスや、スリーピー・ジョン・エステスのようなリアリティのあるイメージを大切にするブルース・マンは、その時その時の現実に対応させて、歌詞を大幅に変える。ハウスは「説教ブルース」の後のヴァージョンで説教師を馘になった時の周りの人たちの反応を歌いこんでいるし、エステスは「台所のネズミ」に新しく生まれた子供の話を付け加えている。それは彼らにとって、自分の歌を聞いてくれた人たちに対する当然のアフターケアだったのだろう。ただし、くり返しになるが、時代やコミュニティに固有の体験を共有していない人にとって、終わることなく報告される物語をすべて理解することはなかなか難しい。
ジョンソンやマクテルは歌詞をあまり変えなかったと思われる。ステージでどうだったかは今となっては検証が難しいのだが、ジョンソンの録音で複数テイクのあるものは、歌詞は変わっているが、言葉の順番やちょっとした言い回しのレベルであって、ハウスやエステスのような、「先日のお話の後日談」というような、過剰なアフターサービスはない。マクテルはこの曲「壊れた機関車のブルース」を何度も録音しているが、ほとんど歌詞を変えていない。これは彼が、ハウスやエステスとは違うタイプ、あるいは違う時代の語り部であることを示している。ジョンソンやマクテルは、音楽が録音物となって、彼らの物語が直接知りえない人々にも届けられることが当たり前という時代の扉を開いた。そうした状況で求められるのは、リスナーがそれぞれの状況に応じて思いを込めやすい空疎な言葉である。
そう考えると、「壊れた機関車のブルース」の別ヴァージョンで、「みじめなやつの気持ちがわかる」のところが、ウィリー・マクテルの、という本人の名前になっていることは興味深い。ジョンソンも「カインド・ハーテッド・ウーマン・ブルース」のなかで同じことをやっている。ブルースに私小説的なリアリティを求める聴衆に、そうしたリアリティとは別のところにいるジョンソンとマクテルは、こうした形で答えようとしたのではないだろうか。いわば、ブルースの標準規格化である。ちなみに、リアリティのあるデルタ・ブルースの伝統から出発して、ブルースの標準規格化に至った最大の大物がマディ・ウォーターズと、ブレーンのベーシスト/作曲家ウィリー・ディクソンだと思う。「フーチー・クーチー・マン」や「モージョ・ウォーキン」などディクソンがつくった曲に登場する「性的に強い男」は現実というよりも、ファンタジーに近い。マディはステージでも、レコーディングしたと通りに演奏することを好み、しばしば演奏に加えてファンタジーの現実ヴァージョンとして自分の体験を話すことで、リアリティを求めるブルース愛好家の好みにも対応した。
あれっ、今日はおふざけなしだ!エレキテルったら、シニフィエとかシニフィアンとか言っちゃって、知的な人と思われたいのかしら? ちなみに、"engine"を「エンジン」と訳している人もいるけど、汽笛"whistle"が出てくることから考えて、「機関車」が正しいと思うよ。
追記 ”I went down in my praying ground”というところが、なぜ”ground"なのか、ピンとこないところだったのだが、ステファン・コールトの『バレル
ハウスの言葉:ブルース方言辞典』によれば、農村部の黒人の人たちは、「祈りを捧げる人たちが一人で祈ることができるように定期的に確保された場所」のことを"praying ground"もしくは、"prayer ground"と呼ぶとのこと。この用法は、ゾラ・ニール・ハーストンの最初の小説『ヨナのとうまごの木』(1934年)にも出てくる。だから、「教会に行って祈り」としていた最初の訳ではダメで、「祈りの地に伏し」とした。"went down"は「下りていく」という意味ではなく、「身体を低くする」「身をかがめる」というような意味か。コールとも指摘している通り、奴隷制時代に白人の妨害を避けて祈りを続けるために確保されたものの名残ではないかと思われる。
”Now you hear me tapping across your floor”のところが、部屋に入ってもいないのに、なぜ同じフロアを横切れるのか、と疑問に思ったが、違う、コツコツという足音が「部屋中に」響くのだ。これは盲目のマクテルならではの表現であると同時に、ストーカー的な危ない感じもする。「こんなに君を思っているもの/わからないはずがないさ」(遠藤賢司「ほんとだよ」)というような。
「ジョージア・クロール」(1928年)は黒人のバイオリン奏者エドワード・アンソニー(1890-1934)がヘンリー・ウィリアムズと録音(盤面にクレジットはないが、ペグ・レグ・ハウエルも参加)した曲で、スペンサー・ウィリアムズ作曲の「ジョージア・グリンド」の焼き直しとのこと。クロール(這う)とか、グラインド(挽く)といったら、もちろん、みなさんご期待の通り、せーの、
下ネタです!
っていうか、もはやネタでもない。オサカンな感じです。英語の歌詞はこちらを見ていただくとして、日本語に訳しておきまする。
パパ、来いよ、あのコ見てみろよ
裏庭に出て、こんな風に腰をふってるぜ
ジョージア・クロールしとる
ジョージア・クロール
金は要らないよ
ジョージア・クロールすればいい
西へ振って 東へ振って
南へ振れば 振り方サイコー
ねえちゃん、家に入っておいでよ
入っておいでよ、今すぐさ
そんなところでクロールの稽古
ホントのしかたはわからない
つまり、ここでいう、彼女は「ジョージア・クロールをする」とは、そのものずばり、セックスをするということでして・・・彼女が好きなのはヤリマンだからかな?といってるわけです。おやおや。追記に入って、ようやく調子出てきましたね。
ちなみに、ロバート・ジョンソンの「オレの台所に入っておいでよ」なんかも、結局同じことを言ってるんだと思いますが、ずいぶん気取ってるな、という感じがしますね。
ウィリー・マクテルと「ジョージア・クロウル」について、マーサー大学法学部のジャック・L・シモンズ教授が神学的見地から書いた論文がアップされていた。一体、どんな分野の話なのか、想像もつかないですが、面白そうなので読むことにしよう。ダウンロード https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=1331625
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