見出し画像

BLM覚書① 南部再建期のサウス・カロライナ議会をレポートしたジェイムズ・S・パイクはレイシストだったのか?

D・W・グリフィス監督の映画『国民の創生』(The Birth of A Nation、1915年)と言えば、それまでに考案された映画のあらゆる手法を駆使した映画史に残る傑作として知られている。一方で、トマス・ディクソン・ジュニアの小説『クランズマン』(『クー・クラックス・クラン 革命とロマンス』として訳出。奥田暁代、高橋あき子訳、水心社、2006年)を原作とするその内容は、白人至上主義団体クー・クラックス・クランを讃美し、アフリカ系アメリカ人に対する偏見を隠すことなくさらけ出し、彼らを排除することによって、南部と北部がKKKの英雄的な働きのもと、同じ白人として手を結びあう・・・というもので、制作者の人種意識が強く反映されており、今日では解説なしに上映すべきではないという烙印を押されている。歴史的作品のこうした負の側面をつきつけられて、すべてを時代で弁明しようとする人には、当時も各地で上映阻止の動きがあったこと、この映画によって、死に体だったKKKが勢力を回復したことを指摘するだけでは不十分だろうか。この映画の罪は罪として、そのような差別的な内容に拍手喝采するような我々ではないはずではないか、過去の歴史は忘れて、グリフィスの手腕を楽しもうではないか、という方、まさしく、おっしゃる通り、相手はメディアの天才グリフィスである。こちとら凡人である。かく言うぼくですら、騙されないとは断言できない。メディアは必ず嘘をつく。メディアの天才は天才的な嘘をつく。

グリフィスのついた手のこんだ嘘のひとつに、「細部まで忠実に再現」というカラクリがある。南北戦争の講和条約締結や、リンカーン暗殺の場面は、たしかに細心の注意を払って、現実に忠実に作られているように見える。では、南北戦争後、黒人議員が多数派となったサウス・カロライナ議会の様子はどうだろう。多くの人びとが検証の手がかりを得ることもなく通り過ぎていったこのエピソードも、全米に注目を浴びるなかで、歴史的な検証を積み重ねてきた史実と並べられることで、間違いなく起こったことであるかのように見えてしまう(よ!さすがメディアの天才!)。セットが当時の議事堂内部の写真をもとにしていることを強調するのだが、どんなに忠実に建物を再現しようが、そこで行われたことや、行われたことの意味を再現したことにはならないはずだが。

1871年のサウス・カロライナ州下院の様子は、実際どうだったのだろう。その証言のひとつとして挙げられるのが、今日の本題、ジャーナリストで、南北戦争直後までは急進的な共和党員(奴隷制に反対する側)だったジェイムズ・S・パイクである(フ―、やっと出てきた)。

ジェイムズ・S・パイク

ホイッグ党から共和党結成に参加したゴリゴリの奴隷制反対派だったのだが、南部再建期にグラント大統領(在任1869~77年)と対立し、再建期南部における政治腐敗を問題にして、自由共和党に参加、1872年の大統領選ではホレス・グリーリーを独自候補に立てて共和党に挑むも、惨敗。ジャーナリストに戻って、その後も、南部の黒人議員、あるいは北部からやってきた所謂カーペットバッガー(南北戦争後に南部に入ってきた北部人)たちを批判して、「連邦軍は直ちに南部から引き上げるべきだ」と主張した。誰であれ、腐敗した政治家は排除されるべきというのは正しいが、実際に連邦軍が撤退したとき(1877年)、南部各地でジム・クロウ法(人種差別法)がつくられ、リンチが横行したことを考えると、パイクを「裏切者」扱いしたい気持ちもわかる。しかし、本当にそうだろうか。というのは、1873年、「転向」後のパイクが、黒人議員多数のサウス・カロライナ下院について書いた記事(翌年『降伏した州プロストレート・ステイト』として書籍化)を読んで、どうも聞いていたのと違っていたからだ。

問題の記事、1873年にパイクが南部を旅しながら書いた一連の新聞記事のひとつ。『ニューヨーク・トリビューン』紙の他、複数の新聞に掲載された。一読して、前半と後半で論調があまりに違うことに驚かされる。おかしい。前半は、黒人議員が多数派となった議会を「無知な民主主義の粗野な形態」と呼び、「野蛮が物理的な力で文明を支配する」ことを恐れている。誰もかれもが黒人で、議長席にも「コンゴ以外ではなかなか見られないようなタイプの黒人」がついており、「その衣装、顔、態度、表情などは、海賊船の船首楼にこそふさわしい」と偏見を露わにする。ところが打って変わって、後半では、黒人議員の無作法に目を覆いながらも、彼らが予想以上に議論の進め方に長けていることを評価し、「彼らは議会の仕事に純粋な関心と真摯な姿勢を持っており、それは我々が認識し、尊敬しなければならないものである」と黒人議員の表向きの陽気さの背後にある責任と真剣さに敬意を払っている。論調と結論があわない。どうもおかしい。

何度も読んでいるうちにようやくわかった。引用符もついていないし、冒頭、いきなり黒人が支配する議会に対する罵倒から始まるので、わかりにくいのだが、前半の黒人議員に対する侮蔑的な見解は、23人の白人議員のなかからでてきたものだ。そして、それら南部のゴリゴリの差別主義者の声を聞きながら、議場に入ってきたパイクは、黒人議員たちが自分たちのスタイルで理想を実現させようとしているのを、おいおい、と思いながらも暖かいエールを送っている。そう解釈すれば、すべて納得がいく。しかし、これがパイクの書いた文章だとすると、ジャーナリストのくせに、誤解を受けやすい文書だなア・・・と、ここまで考えて、ふと思った。新聞から新聞へと手渡され、リプリントされるうちに記事が改ざんされていたとしたら?材料はそろっている。順番を少し入れ替えたり、一語二語、目立たないが重要な意味を持つ単語を抜いたりするだけで、要旨は全く変わる。考えてみたら、記事から書籍化まで1年て短くねえか?その間、本人は取材旅行のため都合よく不在って?急いでパイクを裏切者にする必要があった?

大統領と対立したって、言ってたなア・・・

『降伏した州』、全編読んでみたいが、そこにパイクの声は残されているかどうか・・・ちなみに、ある伝記作者は「パイクの奴隷制嫌いは。黒人に対する奇妙な無関心、ときには敵意と結びついていた」(Stokes, Melvyn.  D. W. Griffith's The Birth of A Nation. 195.からの叉引き。詳細な出典が示されているこの『国民の創生』研究本にあって、この「パイク伝」に関してはページ数はおろか、タイトル、作者名も示されていない)と書いているというが、こうした根拠のない印象論では、記事の論旨の矛盾を説明することはできないと考える。

南北戦争後初のサウス・カロライナ下院議員


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?