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便器としての作品 作品としての便器

かつて、古い小便器にサインをして、「泉」(1917年)という作品として発表したマルセル・デュシャンというツワモノがいた。それが芸術の在り方に対する皮肉、少なくとも彼なりの理解だとすると、彼の芸術を「理解」するのは、大金を払って小便器を美術館に所蔵する側なのか、便器は便器だと言って、自らの泉をすっきりさせるために使う側なのか、あるいは理解なんてことはどうでもいいのか、わけがわからない。わかっているのは、とてつもなく愉快だということだけだ。

NFTについての本を読んでいて、これからはこういうことも大切だよな、と思いつつ、その価値はいったい誰が決めるのだろうと、デュシャンを思い出した次第。デュシャンについていえば、閃いたアイデアを貫徹させるという強い意思があったからこその「すべらない話」であり、たとえばぼくが軽い気持ちで同じことをしても、評価される前に自らの奇行を信じられなくなり、ある夜、酔っぱらった晩などに、作品に泉をぶちまけ、少なくともその役割においては人びとの役に立つ便器へと帰してしまうことだろう。

ところで、よく調べもせずに「古い小便器」と書いたあとで、ふと気になったのだが、デュシャンの便器・・・いや作品は、作品になる前に使用済みだったのだろうか、それとも新品だったか。もちろん、作品としてではなく、便器として。写真を見ると、茶葉んでいるようにも見えるが、作品発表から百年以上も経っているので、使用(もちろん、作品ではなく便器として)しなくても、汚れることもあるだろう・・・

ここで、ぼくの頭のなかに、初老の女性が現れる。ダメージ・ジーンズを丁寧に洗濯して、裂けたところを縫い合わせ、あまつさえワッペンで飾りかねないタイプのお母さんである。デュシャンの作品(彼女にとっては間違いなく便器)をサンポールでピッカピカに磨き上げ、ダメ押しに便所の神さまの話をしてその場を去っていく。こうした妄想までもが、作品の一部かどうかは、ぼくにはわからない。ただ、お母さんにはありがとうと言いたい。そういえば、昨日は母の日だった。

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