小田原城のために

 おれはおまえを赦さない。理由は、おまえがいちばんわかってるはずだ。忘れたなんて言わせない。あのときのこと。なによりも大事なおれたちのこと。口に出さなくたってわかることを、おまえは誤った。だから、おれはおまえを赦さない。理由がわからないなんて言わせない。こんなこと、言わせないでほしかった。

 

 『ランドマークの死』

 あの日、お前は海を見ていた。俺は隣に腰かけて、缶ビールをちびちび飲んだ。俺はいつ言い出せばいいのかわからなかった。お前も、俺が言い出すのを待っていたんだろう。ビールがなくなって、本格的に手持無沙汰になり俺が口を開こうとしたとき、お前は海へと走り出した。海に飛び込んですぐ、お前は溺れた。俺が助けなければ死んでいただろう。

「こんなに酒飲んだら、もう泳げねえに決まってんだろ。ばかなことすんな」

 俺はお前をずるずる引っ張って、浜辺に放り投げる。

「悪い。酔っぱらって、泳いで、酔っぱらって、泳いで、とはいかねえな。やっぱり逆じゃだめだ」

 黄金の服。お前が敬愛する佐藤泰志の小説にそんな一節があった。海やプールで泳いで酒を飲み、愛する人たちと語らう。そんな場面が多い、夏が好きな作家だった。佐藤泰志はもう亡くなっている。自殺だった。

「おめでとう」

 お前は俺の方を向いて、恥ずかしそうに微笑んだ。ありがとう、そう言い、どうだったと訊く。

「いい小説だった」

「よかった。選考委員なんかよりお前の評価がいちばん心配だったんだ。この小説が小田原城になれてるといいんだけど」

 小田原城。俺たちのランドマーク。

「まだ難攻不落には程遠いな。描写が弱いところもあったし、芥川賞の候補にもならねえだろ」

「そうか。そうだよな。ただ、難攻はだめでも、不落には一歩近づいたよな」

 お前は、俺たちの長らく目標にしていた新人文学賞を受賞した。俺はと言えば、未だ一次選考落選が続き、不落どころか多落だった。

 お前は溺れて乱れていた呼吸が落ち着くと砂に横たわった。濡れて滴るしずくがお前の周りの砂を真っ黒にしていて、影がまとわりついたようだった。

「早く来いよ」

「わかってる」

 その後、俺たちはいつもみたくバカ話をし、文学観の違いに言い争い、最後は小田原城を目指そう、と熱く語った。日も暮れはじめ、解散の段となったとき、お前はしばらくここにいると言い、俺は先に帰ることにした。あの日、俺はお前と一緒に海に残るべきだった。お前が夕暮れで赤黒くなった浜や海を見る瞳に、なにも宿っていないことに気づくべきだった。次の日、お前が海で自殺したことを知った。

 

 『ランドマークの死』。この小説はそう名付けられていた。おれたちの中でランドマークとして存在していた小田原城を使って。ほんとうなら、ランドマークという言葉自体、おまえは使うことを控えるべきだった。

「ぼくね、小田原城が好きなんだ。難攻不落って呼ばれてて、ぼくもそんな風に、すごい小説を書きたいんだ」

 翼くんは言った。変なたとえだと思った。

「でも、豊臣に負けてるだろう。鉄壁じゃないよな」

 あのときそう言ったのは、おれかおまえかどちらだったか。

「ううん。たしかに戦としては負けたよ。でも、小田原城は攻め崩されたわけじゃない。あまりにも鉄壁過ぎて味方がほうぼうであっさり降伏したんだ。わしらには小田原城があるからって。それで、味方が減って勝ち目のなくなった北条は降伏したんだ。小田原城単体なら、何年だって籠城できたらしいよ」

 翼くんはおれとおまえに教えてくれた。

「ぼくたちもさ、小説もっとがんばろうね。小田原城をランドマーク、目印として、隙のない小説を書こう。それで、いつでも迷ったら、ここに帰ってこれるようにしよう。ぼくたち自身も、小田原城みたいなランドマークになるんだ。誰かが悩んだら帰ってこれる、鉄壁の、安全な場所に」

 おれたちはあのとき、翼くんに誓ったはずだった。おれたち自身がランドマークになれるようにと。それなのに、おまえは翼くんを死に追いやった。

 おれたちの中でも、翼くんは圧倒的に小説を書くのが上手かった。歴史や哲学に詳しく、なによりも言葉を大事にしていた。おれのちょっとした言い回しを気に入って小説に使いたいと言い、それを快諾すると、ミスドを奢ってくれたりした。気にせず使えばいいのに、ドーナツを頬張りながらおれがそう言ったとき、仲がいいからこそ、勝手に使われたりしたら信用できなくなってしまうでしょ、お互い気になって今まで通り言葉が出なくなったら、ぼくたちは小田原城ではいられなくなってしまうよ。カフェオレを飲みながらそう言った。翼くんは自分が言ったことを忠実に守っていた。言葉の重さや責任性を誰よりも感じていたからだろう。そんな翼くんといたせいか、おれも言葉に対する感覚が鋭敏になっていった。翼くんが新人賞で最終候補になったとき、おれは最終まで進むことはできなかったが、三次選考まで進むことができた。翼くんは結局落選してしまったけれど、おれがはじめて三次までいったことを自分のことのように喜んでくれた。そのときのおまえは一次で落選していた。おれたちは最終まで進んだ翼くんの小説を読ませてもらい、実力の差を実感した。おまえもそうだろう。だから、翼くんの小説を家に持って帰ってまで読んでいた。おれはそう思っていた。

 おまえが新人賞を受賞したのは、その半年後のことだ。雑誌に掲載された小説は翼くんが以前最終選考で落選した小説だった。翼くんは当然動揺していた。どうして、なんで、そんな言葉をおまえにすがりついて泣きながら何度もぶつけていた。

「ぼくたちは小田原城だろう。ねえ、これじゃ鉄壁でいられないよ。ランドマークは、ぼくたち自身だろう」

 おれは聞いていられなかった。翼くんの言葉はいつも通りどこまでもまっすぐで、一直線におまえに向かっていた。

「知らねえよ」

 それなのにおまえは、向き合うことを放棄した。祝ってもらえるとでも思ったのか。傷ついた顔を、翼くんの前でどうしてできた。おれがおまえを殴ろうとすると翼くんは止めた。暴力はいけないと、そうしたらランドマークは完全に壊れてしまうと。おまえはあのときそれを鼻で笑っていた。なあ、おまえはばかにしたみたいだったけど、翼くんはそう言ってくれたんだ。おれたちを、翼くんは守ったんだ。いま思えば、翼くんはそのときには覚悟していたのかもしれない。そのすぐあとに、翼くんは自殺した。小田原城にほど近い海に身を投げた。その直前と思われる時間に、翼くんからメッセージがきていた。おれはそれをあとになって気づいた。

「小田原城を忘れないでください」

 おまえだって、この意味がわからないはずはないんだ。あの場所にいたおれたちにしかわからない言葉だ。

 おまえが『ランドマークの死』を発表したのは、翼くんの一周忌とほぼ同時期だった。新人賞受賞後第一作として書かれたそれを読み、おれはおまえがもう小説を書かない意思のもとでそれが書かれたことがわかった。そして、おれたちのことを書いていることも。あの海の場面は、おれとおまえが最後に会ったときのことをもとにしているんだろう。おれたちの間には会話なんてなかったが、おまえが海を見ていたことだけは事実そのままだった。その意味をおれはずっとはかりかねたままだ。ほんとうは小説をそんな風に、現実の意思を読み取ろうとするのに使うのは間違っていることも知っている。でも、おまえがわざわざ雑誌を送ってきた、その意味は理解したつもりだ。

 おまえは「俺」と「お前」というあいまいな人称を選択して、ありえた未来と現実を描いた。正当に賞を受賞して、正当に祝われる。おまえは誰に良い小説だと言われたかった? 誰におめでとうと言いたかった? 酔っぱらって、泳いで、溺れて、助けられて、自殺して。おまえはどうしたかった? ほんとうになにも宿っていない瞳などあるのか? 残された「俺」には本当に後悔することしかできないのか? 「俺」は誰だ。「お前」は誰だ。なあ、教えてくれよ。おれたちのランドマークは翼くんだった。おまえの小説だって、おれたち自身だって、ほんとうは翼くんがいたからこそ成り立っていたんだ。おまえはそれにいつ気づいたんだよ。いつ気づいて、いつこんな小説を書こうと思ったんだよ。

 おれは、おまえを赦すことはできない。おれはこれからも小説を書いていく。こんな方法で小説を書くことはもう二度としないだろう。これっきり。どこにも出すつもりはない。おまえだけが読む、おれたちのための小説だ。翼くんの言葉を、翼くんを忘れるな。小田原城を忘れるな。だから、おれたちにできることは、おれとおまえがしていかなければいけないことはわかるはずだ。簡単に立ち直らなくていい。逃げるな。向き合え。おれはいつまでも、おまえを待っている。小田原城を守るために。

 了


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