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【受賞作発表】ひらづみエッセイコンテスト お題「人間仮免中」

【優秀賞】該当なし


【佳作】好きと苦手の贈りもの(大森美徳)

 好きとか苦手とかの感情はどこから生まれるのだろう。よりによって、なぜそれが好きなのか。なぜそれが苦手なのか。これは考えてみると実は不思議な問題なのだ。

 たとえば僕は小説が好きである。もう何年間もずっと好きでいる。作品や作家ごとの好きや苦手はあるけれど、おしなべて小説というものそれ自体を好いている。

 なぜ好きか?

 物語の世界に入り込めるから。独創的で美しい文体を味わえるから。斬新な思想に触れられるから。……とまぁ、色々な理由が思い浮かぶ。しかし、必然的に次のような問いが生まれる。

 物語の世界に入り込むのが好きなのはなぜか?

 美しい文体を味わうのが好きなのはなぜか?

 このように「なぜ?」を繰り返すと、やがて、何も答えられない地点に到着する。なぜか分からないが好きだという地点。好きな理由は好きだからとしか言えない地点。その先には進めない。苦手なものも同様である。僕は前職の仕事が苦手で転職したが、煎じ詰めれば、苦手な理由はただ苦手だからでしかなかった。なぜか分からないが苦手だった。

 まさにここが不思議なのだ!

 なぜか分からないが好きである。なぜか分からないが苦手である。……どうして人間には、このような「なぜか分からないがそうである」という性質が一人ずつ決まっているのだろう。なんだか自分の意志で生きているのではないような気さえしてくるではないか。

 「なぜか分からないがそうである」という性質の総体を、ひとまず「個性」と呼ぶことにして、さて、この個性なるものは一体どのように決まるのだろう?

 親や生育環境か。実際ある程度の影響は受けるに違いない。でも、だとすると同じ親が同じ環境で育てた子供は同じ個性を持つことになるが、果たしてそうなるだろうか。

 あるいはDNAか。確かにDNAは存在する。しかし、これは根本的に質問の答えになっていない。なぜって、僕が考えているのは、そのDNAがどのようにして決まるのかということなのだから。DNA自身がDNAのあり方を決めるとは論理が破綻している。

 親でも環境でもDNAでもないとすると何なのか。何が個性を決めるのか。……

 ひょっとすると、得体の知れない何者かが決めるのではないだろうか。何者かが仕様書のようなものを作り、それに基づいて人間が生まれるのではないだろうか。この人物は小説が好きである、静かな場所が好きである、黙々と集中して取り組める作業が好きである云々と記載された仕様書だ。その仕様書の内容のことを個性と呼ぶのではないか。

 いわば個性とは、受精卵の時から与えられていて、生涯を通じて少しずつ明らかにしていくものなのではないだろうか。好きも苦手も自分の意志に基づくのではない。生まれる前から既に与えられている。我々はそれを後天的に思い出しているのではないだろうか。

 また、これは趣味や職業に限らず、恋愛などの人間関係にも言えるだろう。誰かを好きになるとする。しかし好きな理由は分からない。ただ好きだから好きとしか言えない。それは、きっと生まれる前から既にその人を好いているからなのだ。そして地上で実際に出会うことによって、その人を好きであるということを改めて思い出しているのだ。

  好きと苦手の不思議。個性の不思議。個性なるものが、得体の知れない何者かによって与えられているかもしれないという仮説。

 では、この何者というのは文字通り何者だろうか。どんな姿でどこにいるのか。その学術的名称は「魂」か「神」か「イデア」か、はたまた全くの別物か。謎である。

 とにかく重要なのは、自分の個性が、その何者かから贈られたものかもしれないということだ。これに気付いたとき、僕は驚きや神秘さを通り越して畏怖の念を抱いた。……言うなればこの贈りものの全容を明らかにするまでは死ねないなと直感したのだ。

 このことを不思議がる人をあまり見かけない。みんな何者の正体を知っているということだろうか。だから不思議に思わないのだろうか。僕はその正体を知らない。なんだか自分だけぽつんと置いていかれた気分だ。みんなは本免許でびゅんと遠くまで走るのに、僕だけ仮免許でいつまでものんびりしているような。……僕は呑気なのだろうか。

【佳作】娘なりの成長(秋谷進)

 私の娘は、年齢に対して未熟なところがある発達障害です。まさに強く変わりたいと願う人間仮免中。

 娘は幼い頃から我が強く、負けず嫌いで、他人に譲ることのできない性格でした。自分が一番じゃないと不満なので、かけっこで負けそうになると脱走することもありましたし、劇で好きな役を得られないとすねてごねるところもあります。ある意味自分に素直な娘なので、親としては、そういうところも可愛いと思ってしまうわけですが……こういった性格は幼稚園の間だけではありませんでした。
 
 小学生になると、読みたい漫画があれば授業中でも読んだり、テストで点数が悪いと言ってきた子の服を隠したり、自分もできていないのに他人に口出しをしたり。勉強はできる方ではありましたが、我が強すぎると言って、個性を伸ばすとうたっていた私立小学校から退学を言い渡されました。まぁ、その私立小学校は個性を伸ばすどころか、横並び教育しかしていなかったので、娘とは相性が悪かったというのが本当のところですが。

 中学生になると、やることもだんだん巧妙になってきます。自分をいじってきた子の財布からSuicaを抜き取ったり、お金を抜き取ったり。だけど周りからは認められたいという気持ちが強いため、話を盛って伝えすぎて信用を失うことも。私としては、同じ中学の女の子を見て、娘にも女の子らしさを学んでほしいなと思っていたのですが、それはかないませんでした。

 怒られると、泣いてフリーズ。なぜなら、娘は悪いことだと思ってやっていないからです。周りにはわからなくても、娘には娘の考えがあって行っていること。だからそれに対して怒られても理解ができません。
 
 理解ができないのに、怒られているとどうなると思いますか?
 
 自分が何かをしようとすると、しつこく怒られるということが繰り返されていれば、自分の自信を無くします。周りから嫌われているんだと思うようになります。周りは自分が何をしても怒ってくるんだと思うようになれば、相手に期待をしなくなるので、抵抗することをやめます。

 とても悲しい悪循環ですよね。だから、自分のことを見てくれている家族の前だけで、娘はキレるようになりました。そうしているうちに、やはり中学校も退学処分。社会は自分を受け入れてはくれないという気持ちだけが、娘の心に残っていきます。

 でも人の時間というのは止まってはくれません。学校に行っていても、学校に行っていなくても、毎日時間は過ぎていきます。娘は孤立して誰のことも信じられなくなっていました。人を信じられないのに、それでも人を好きだという気持ちは消えなかったのでしょう。誰かと一緒にいる時は、相手の様子を窺うようになったのです。もうこれ以上嫌われたくないから。

 そんな娘は、通信制の高校に通うようになりました。周りを見ると、みんな普通に会話をしていて、友だちがいます。けれど娘には友だちがいません。楽しそうに話をしているクラスメイトがいて、その中に入りたいと思っても、自分が入ることで、また先生から怒られるかもしれません。

 何に対して怒られているのかがわかっていないから、何をしても怒られると思っているからです。

 私は娘のことをずっと見てきました。突き放すこともなく、ずっと。私も娘のことを怒ったことはあります。怒っている理由を伝えたことはありますが、娘はそれを理解していたかはわかりません。わかっていなければ、きっと私も何かをすれば怒る人と思われていたと思います。

 他の子と比べるのは違うことではありますが、私は娘を見ていて思うのです。娘は娘なりに、幼稚園、小学生、中学生、高校生と成長していっていると。身体が大きくなっただけではなく、心も少しずつ変化しています。

 今は娘も高校を卒業しています。そう、卒業しているんです。小学校中学校と退学になっていた娘が。これは、凄いことだと思いませんか?

 ある時娘は言いました。

「私、普通の人になりたい」

 私は、その言葉に涙しました。娘が普通の人じゃないなんてことはありません。普通の人です。でも、何か違和感を覚えてそう言っている娘。

 人は簡単には変わることはできませんが、自分を客観的に見て、どうしたいのかということがはっきりしてくると、買われる可能性は十分にあります。

 人間仮免中だった娘ですが、私はもう仮免を外していいと思うのです。

【佳作】ピアスの穴を開けたとき、私は死について考えた(皐月)

 ピアスの穴を開けた。本当は開けるつもりなんてなかったのだが、友だちから「一緒に開けよう」と誘われたことと、もしかしてハタチにもなって穴の一つも開いていないのはダサいかもしれない、という謎の危機感から、片方だけ、右耳たぶを捧げた。

 痛いと言う人もいた。しかし、まったく痛くないと言う人もいた。私の中では前者が有力な意見だった。だって皮膚に穴を開けるのだ。注射のように針を差し込むだけではない。皮膚を貫通させて、もう塞がせないように、さらにその穴に針(ピアス)を通すのだ。痛くないはずがない。しかし、一緒に病院に施術に行った友だちは「痛いって言ってる人、見たことないけど」と反論してきた。うるさい、そう思っていて痛かった時の方がショックだろう。いいんだよ、痛いかもってびくびくしていたほうが丁度いいんだ。

 しかし穴を開ける瞬間は本当に痛くなかった。私生きてる?神経通ってる?と思うほどに痛くなかった。現代のピアッサーは素晴らしい。それまで貞操を守ってきた私の右耳たぶに、小さくもかわいい金色のピアスがぶら下がった。

 開ける瞬間は痛くなかったが、開けてからの数時間はジンジンと痛んだ。やはり痛いよな、よかった生きてた私、痛さが嬉しい。なんて阿呆みたいな安心感を覚えながら帰路につく。駅の改札をくぐり、2人してホームで電車を待つ。乗りたかった電車が出発したばかりだったので、次の電車に乗るための列の先頭に立った。目の前には、私たちの身長ほどの深さのホームが広がる。

 「そういえば、今日って人身事故があったんだっけ」と友だちが言った。電光掲示板を見ると、別の路線の人身事故の影響で同じJR線内すべてにみだれや遅れが生じているとの文字が流れていた。

 人身事故が起こるたびに不思議なのが、果たして人間の痛覚はどこまで保たれるのか、ということだ。自殺を覚悟して、ホームに降り立って、滑り込んでくる電車に人生の最期を任せる。想像しただけで痛い。電車の車輪は車のようにゴムじゃないし、幅が狭く鋭いうえに円周が大きい。あれに引かれたら、断裁はまず免れないだろう。即死ならまだしも、微妙に意識が残ったままじわりじわりと死にゆく場合、恐ろしい痛みを伴う。今までそうして亡くなった人は、そんなリスクを考えたうえで線路に立ったのか。それとも絶望や失望の淵に立たされたとき、人間は迫りくるどんな痛みも想像できなくなるのだろうか。死にたいなあ、でも痛いのやだなあ、なんて思えたらまず電車は選ばないと思う。

 じゃあ何が一番痛くない死に方だろう。練炭?でもあれは下手に失敗したら、意識障害を伴って全身麻痺、手足を動かせなくなる可能性があると聞いた。そうなれば望んでいた自殺にリベンジすることはできない。飛び降りも痛いし、溺死も苦しい。首吊りもそう。すべてにおいて失敗するリスクと苦痛は伴う。

 プアーン…!と警笛が鳴って、我に返った。ピアスの穴の痛みは、電車が遅れて来てもなお続いてて、自分が生きていることをまた実感した。

 ああ、でも違うよなあ、きっと、そうまでして死にたいと思う人は、死に伴う苦痛なんかよりもずっと、心の痛みのほうがつらいことを知っていたのだ。私じゃ想像もできないほどの痛みを知って、それらから自分を守るために自ら結末を選んだ者たち。彼らはピアスの穴を開けるときの痛みを知っていたのだろうか。尾を引く穴の痛みにいちいち安堵するこんな未熟な人間もいることを知っていたのだろうか。

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