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ストーリーの映像化はつまらない

私はウォーキングに行った時に、頭の中でいろいろな事を考えています。ウォーキング中の思考はメチャクチャ創造性豊かなので、仕事時間としてもウォーキングは最重要な時間なんです。仕事や作品に関わらず、0から1を生み出すのはいつもウォーキング中です。そういう意味では、ウォーキングに関する買い物はすべて経費として認めて頂きたいのです。例えば、ウォーキングシューズ。え〜と、以上ですかね。いや!ノイズキャンセリングイヤホンとかも!全然ダメですね。経費としては足りません。ウォーキングのコスパが良すぎて。45万円ぐらいするバレンシアガのシューズを買わないと。

ウォーキングをやっている状態がなぜ創造性豊かなのかと言うと、タイムラインが無いからです。タイムラインが無いから、何かを順番に考えていないのです。あっちに行ったりこっちに行ったり、上に行ったり下に行ったり考えてるんです。

そして、思考中には文字が介在してません。言葉は使いますが文字は使わないんです。頭の中で「とりあえずこの文字を頭の隅に置いといて」みたいには出来ないんです。ああでもないこうでもないと、言葉や意味が頭の中で湧いては消えていきます。でもそこに文字はありません。

一方で、机に向かって考え事をする時は、タイムラインや文字が存在してしまいます。ストーリーを考える時は起承転結を考えてしまいますし、とりあえず思いついたアイデアをMacの画面の中で文字にしてしまいます。

私がいつも躓くのはここのプロセスです。頭の中で考えている時はリミッターが外れた無邪気な子供なんですが、それを実際にカタチに落とし込む時に、まったく好きでもないルールをうやうやしく持ち出してしまうんです。

まず「なぜ起承転結が必要なのか?」なんですが、これはもうストーリー物のエンタメを作る上では、絶対に否定出来ないルールだと思ってしまっています。自分で起承転結の物語を作って、「ああ!なるほど!これが起承転結の効果なのか!」と実感した事で起承転結を崇めている訳ではありません。ただ単に「そういうものらしい…」と思っているんです。座学として聞きかじっただけです。しかも、絶対に守らなくてはいけないルールだと思ってしまっています。

言い方としては、起承転結でも三幕構成でもSAVE THE CATの法則でもいいんですが、要するにストーリーを作る時には絶対に守らなければいけないルールがあると思い込んじゃってる訳です。

だからせっかくウォーキング中にiPS細胞のような、何にでもなれるアイデアを手に入れたのに、それをカタチに落とし込む時にすごくつまらなくなるんです。カタチに落とし込む作業そのものが、もうつまらない作業なんです。「なぜ起承転結化しなければならないのか?」と思っちゃうんです。

「冒頭はこれで観客を惹き付けて、中盤はいろいろなバリエーションで楽しませて、ラストのオチでビックリさせよう。」みたいな型にハメようとする作業自体がまったくもってつまらないんです。「どうせそうやらないと、みんなが面白いって思わないんでしょ?嫌だけどそれをやらないと、世の中に受け入れられないんでしょ?」と思いながらやる作業なんです。いや〜!クソつまらない!

だから途中で挫折します。こんなクソつまらない作品を作るのは人生の無駄だと思ってしまうんです。そんな風に成仏出来ていないアイデアが、私のスマホやMacの中に山のようにあります。本当は光り輝く将来を約束されたアイデアだったのに、高速道路の中央分離帯に捨てられたコンビニのゴミ袋の中に入った冷やしラーメンの付け合せの刻んだキュウリの残りカスのように、誰にも見向きもされず唾棄されているんです。

そんな時に私がやるのは、ストーリーを完成させてからそれを映像化するのではなく、私が見たいと思う映像(シーン)を考えてから、それをストーリー化するという方法です。

その思考を始めると、私の貧乏ゆすりがピタリと止まります。心の貧乏ゆすりが止まるのです。私がやりたいのは、文字で書かれたストーリーをビジュアル化する事ではないんです。

例えば、「トラウマを抱えた一人の女性が旅に出て、そこでの様々な出会いを通して自分を見つめ直し、遂にはトラウマから自分を解放することが出来た。」という文字ベースのストーリーがあるとします。実際にはもっと詳しく書いてあるんですよ。そして「これを写真集にしたいんですよね〜」と言われたら、ほとんどの人がこの文字ベースの文章をビジュアライズしていくはずなんです。本当に一生懸命この文章をビジュアルとして時間軸とともに再現しようとしてしまうんです。それが文字や文章の強さです。

そして、完成した写真集は感傷的ないかにも日本的な湿っぽいドラマを含んだモノになるはずなんです。あるいは機内誌の紀行モノみたいな写真集になるはずなんです。それがストーリーの存在の強さであり、怖い部分でもあります。怖いと言うと上品に聞こえますが、ダメな部分と言ってもいいでしょう。

私が作りたい映像作品は、写真家が撮った写真を自分のルールで並べた写真集のようなものです。そこには起承転結なんて無いんです。そこにあるのはビジュアルの中にある印象とイメージと意味、それらが順番に並んでいるリズムです。映像作品なのでもちろんセリフがあるシーンもあるでしょう。音楽もあるでしょう。でも、冒頭で喋ったセリフが伏線になっていて最後に回収されるとか、そういう作品を作りたい訳じゃないんです。

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