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「映画祭のニューノーマルとは?クリエイター目線での価値を考える」の補足

昨日6月4日に、Short Shorts Film Festival & Asia のオンラインイベントの第一弾である『映画祭のニューノーマルとは?クリエイター目線での価値を考える』に出演させて頂きました。

別所哲也さんはもちろんのこと、札幌国際短編映画祭の久保さんにもだいぶ前からお世話になっていまして、行定監督とは初めてお話させて頂きました。行定監督の立場が強力なのは、監督でありながら、熊本で映画祭もやっていて、リモートで作品を制作済みという、このトークショーの全てを兼ね備えてしまうというところでしょうか。

こちらがアーカイブになります。2時間近くありますが、仕事とか作業などをしながら、流し聞きでもして頂けたらと思います。

昨日のイベントの中では話せなかった事や、話し切れなかった事を、noteに書いてみようと思います。今回のテーマは、実は簡単には答えが出せないテーマなので、イベントの後にも何が正解なんだろうかと考えてしまいました。探り探りの文章なので、ちょっと抽象的で読みにくいかもしれませんが。

私は昨日のイベントでは、映画祭にエントリーする側、参加する側の代表として呼んで頂いたと思っています。映画祭がオンライン中心になった時に、いま私が思っている事を補足的に書いてみます。

映画祭の魅力① そこで評価されたい

私が映画祭に魅力を感じている要素はいくつかあります。まず1つ目は、作品を評価してくれる機能がある事だと思います。映画祭というのはお祭りでもありますが、分厚いフィルターでもあるんです。「選ばれる」という残酷な行程があり、その分厚いフィルターを通過出来た時の喜びは大きいんです。

それがオンラインになったことによって価値が変わるかと言うと、価値は変わらない気がしています。先日発表されたカンヌ映画祭のオフィシャルセレクションでも、カンヌでは上映されないけれど、カンヌ映画祭という分厚いフィルターを通ったことに喜び、みんなが称賛してくれるんだと思います。

そして、映画祭のすごいところは、その分厚いフィルターを通過すれば、演者側になれる事なんです。例えば音楽フェスで舞台の上に立つ演者になりたいと思っても、フリーエントリーの選考自体が無いと思います。ボブ・ディランやビョークが、音楽フェスに出たいからと行って応募する事はありませんが、映画の世界では巨匠の作品でも選考というフィルターにかけられ、映画祭が違うと思えば選ばれません。でも、映画祭は上手く行けば、そのお祭りの主役にもなれるんですよね。それって、すごく夢があります。

映画祭の魅力② そこに参加すること

2つ目の魅力は、実際に映画祭に行く事だと思います。映画祭に行くと、とにかく楽しいんです。遠い国の映画祭はもちろんのこと、渋谷で開催される「Short Shorts Film Festival & Asia」だって楽しいんです。自分の作品が上映されている期間はテンションが上ります。

何が楽しいかと言うと、映画祭の人たちとの出会いだったり、お客さんとの出会いだったり、上映を見に行った後にスタッフやキャストの人たちと食べるご飯だったり。海外に行った時は、その国の美味しいものを食べたり、珍しい建物を見たり、そういう実体験が楽しいんです。特に私は映画祭に行きたいがために映画を作っているところもあります。映画の神様に「それはいかがなものか」と言われてしまいそうですけど。

この点は、オンラインになることで、大きく変わってしまうところだと思います。まず、大きな劇場に人がたくさん集まれないという状況もありますし、今は簡単に海外に行くことも出来ません。この点に関してはどうしようもありません。

例えば、家のテレビやパソコンで映画を見る事って、家風呂に入る感じなんだと思います。そして、シネコンやミニシアターで映画を見る事は、スーパー銭湯や街の銭湯に行く感じなんだと思います。そして、映画祭は温泉に行く感じなんだと思います。同じ「お湯」を楽しむ行為なんですけど、それに対する心持ちは全然違います。

わざわざ遠くの温泉に行きたいのと同じで、わざわざ遠くの映画祭に行きたいんです。映画祭って「わざわざ」行く事が楽しいんだと思います。私も札幌にわざわざ行きたいがために、札幌国際短編映画祭にエントリーしたりしますから。その「わざわざ」感がオンラインだと無くなってしまうんですよね。じゃあオンラインでわざわざ感を出すにはどうしたらいいんでしょう。そもそも、オンラインでわざわざ感が必要なのかも考える必要もありますけど。

そして、リアルな映画祭が無くなることで映画祭の価値が下がるかと言うと、魅力の1つ目で書いた「フィルターの魅力」によるんだと思います。「あそこの映画祭で選ばれたい」と思われていれば、オンラインのイベントになったとしても、参加する作り手は十分にテンションが上がると思います。

これはお世辞ではなく、「Short Shorts Film Festival & Asia」と「札幌国際短編映画祭」は、そのフィルターの魅力がずば抜けている短編映画祭だと思います。私は短編映画を作ったら、国内ではこの2つの映画祭には必ず応募します。そして、しっかりフィルターが機能しているので、私の作品だって普通に落とされますからねw。こう言ってはなんですが、コネも効きません。そういうスタンスだからこそ、信用される映画祭だとも言えます。

もしかしたら、このコロナ禍では、今までやって来た事の積み重ねによって、生き残りが決まって来てしまうのかも知れません。その映画祭のブランドのチカラと言いますか。

映画祭の魅力③ 思わぬ作品との出会い

映画祭の魅力の3つ目は、観たことも無い作品に出会えることだと思います。特に、リアルに開催されている映画祭行くと、本当にそういう体験が多いです。映画祭に行ってみると分かるのですが、実は映画祭って、かなり変わった作品をたくさん集めていたりします。例えば、カンヌ、ベネチア、ベルリンみたいな有名な映画祭でも、本当に変わった作品ばかりです。短篇部門はより一層変わった作品ばかりです。シネコンで観客がいっぱい入って観るような映画ばかりが集められてる訳では無いんです。

私はずっと短篇部門にエントリーしてきたので、映画祭に行っても、短編映画ばかりを観て来ました。大きな映画祭ほど、変わった短編映画が多い理由のひとつは、「その作品が映画の新しい可能性を見せてくれているか?」という視点も含めて選んでいる事があると思います。さらに「映画の多様性に寄与しているか?」という点もあると思います。こういう基準があると、分かりやすくて見やすい作品は選ばれません。特に大きな映画祭ほどその傾向は強い気がします。

そして、ずっとベールに包まれていた、そういう「変わった作品」が目の前に現れるという意味では、オンライン化の意味は大きいと思うんです。「カンヌで上映すごい!」って言われて観たけど、ストーリーや表現が難しくてよく分からなかった、という体験をすることが出来るんです。いかに普段、ものすごく狭い範囲の、歯ごたえの軟らかい、ハッキリした味の映画しか観ていないかが分かります。映画祭は、映画の多様性を意識的に守ろうとしていますから。

一方で、オンラインで配信すると、映画祭の文脈とは関係の無い映像とも競合することになります。vimeoなんかには映画祭とは関係なく、ものすごく強い作品がたくさんあります。もっと言うと、作品と作品ではなく、YouTuberの人たちの「映像」とも競合してきます。

オンライン配信によって、変わった作品を、みんなに見える場所で発表出来るという反面、映画祭という「保護区域」から作品を出してしまった時、映画祭文脈の作品がそれに耐えられるかという心配はあります。

なぜ映画製作者が「映画の多様性を守ろう」と声高に言うかというと、多様性の中には弱い作品がたくさんあるからです。「弱い」と敢えて書きましたが、全ての作品がサバイバルする力を持って、自力で戦い抜き、居場所を切り開ける訳では無いですから。

強い作品を作れば、YouTuberにだって勝てる、というのは理屈としては分かりますし、そう有りたいと思いますが、「強さ」の質が違う気がするんです。イベントでは違う例えで話しましたけど、YouTuberはコンビニの棚を確保出来る強さを持った商品だと思うんです。それに比べて映画祭の作品は、和菓子屋が作った甘さ控えめの桜餅だったり、200年続く佃煮屋のちりめん山椒というか。ちょっとニュアンスで分かりづらいかも知れませんが、そんな感じが感覚的にあるんです。

私たちが映画を作る時にやっているのは、言われても違いが分からない様な事をやっているんですよね。カラーグレーディングにしても、音のミックスにしても、本当に微妙な、傍から見たらある意味どうでもいい詰めをしてるんです。そして、スマホで観ても強い映像というのは、カラーグレーディングや音のバランスが崩れている事なんか関係なく、強い刺激を残せる映像なんだと思います。

だから映画祭は、コンビニの棚みたいに、絶対に売れる強い作品ばかりを置くんじゃなくて、食べたことのない珍しいお菓子や薄味のせんべいも並べて欲しいんです。もしかしたら売れないかも知れないんですけど。ミニシアターよりももっと映画の多様性を守ることが出来るのが映画祭だと思うんです。

私は昨日のイベントが終わった後に、もう一度自分なりに「映画祭のニューノーマルとは?クリエイター目線での価値を考える」を考えてみました。

長々と書きましたが、映画祭がオンライン化することで、味付けの濃い映像コンテンツと横並びになってしまう状況が生まれますが、そっちに合わせるのではなく、映画祭は映画の多様性を守るために、哲学を大きく変える必要は無いんじゃないかと思いました。

これは私が参加者側に立っているから、こんなキレイごとを言えるのかもしえませんが。

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