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物書きとしてどうしたいか

私は今後物書きとしてどうしたいんだろう?そんなことを時々考えるようになった。

これまで私は公募に挑戦することを主として執筆活動を行ってきた。が、昨年暮れに第16回銀華文学賞で佳作に入ったことで賞レースに対する野心みたいなものが薄れてしまった。なんや佳作に入ったくらいで・・・・と思われるかも知れない。が、人の欲望というものは際限がないのであって、この先も賞レースに挑戦し続ける限り自分の心が満たされることはないんじゃないかと思うのだ。

そもそも私が他人からなぜ小説を書くのかと問われた時に私はいつもこう答えていた。すなわち私は精神障害者として半生を過ごしてきて相手にされなかった「社会」に対して自分の文学や言葉が通じるかどうかの勝負をしたいと。が、五十手前ではじめてまともに働くようになり曲がりなりにも社会人となり再婚もした。そして文芸思潮からの賞状を受け取ってみると何だか自分が独り相撲をしていたように感じるのだ。もうええんじゃないかと。

私は自分の小説を通して「社会」と和解をしたい。何よりも自分自身と和解をしたいと考えるようになった。そもそもが勝負をしたいというような事ではまだまだ承認欲求に囚われているに違いない。そうではなくて私が書くもの、あるいは私自身の生き方によって誰かの人生を救うことができないだろうかと考えるようなった。大げさかもしれないが(笑)

では、具体的にどうするかというとこれまでと大して変わりはしない。相変わらず賞レースには挑戦していく。と、同時に同人にも力を入れていこうと思う。同人誌で書くことはすごく力がつくと思う。

大体が五大文芸誌の新人賞を獲る→単著を出す→作家となるみたいなプロセスを辿っていたら人生がナンボあっても足りない。圧倒的に時間がない。所謂「公募勢」の方が小説を書いて賞に応募する動機は様々だと思うが、もし作家になりたいと願う人がいるのならとっとと作家と名乗ってしまえばいい。明確な作家の資格なんてないのだから。

あと仕事のスタイルもこれでええわと思っている。私は年収200万の貧乏人であるがもうミニマムに暮らしてい行こうと考えている。幸い執筆活動を落ち着いて出来る環境は出来ているのでもうよろしい。などと言うと妻にどつかれそうではあるのだが。

このnoteの記事も私にとってジャーナリングのようなものになっている。これを読む奇特な人にとって何か閃きのようなものが生まれるなら幸いだ。今日はこの辺りで。

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