ショートショート「寡黙なマスターのBAR」
街がすっかり落ち着き、人影もまばらな頃、ほろ酔い気分の45歳の独身男が一軒のBARにたどり着いた。
おもいきって扉を開けると、そこは映画の中にでも入り込んだような空間だった。
いかにも古いカウンターの中にウィスキーやリキュールのビンがズラリと並び、その前には、これまた映画に出てくるようなシャツに黒ベストで髪をキッチッと整え、ヒゲを蓄えたマスターが立っている。
「コチラどうぞ」
マスターに最小限の言葉数でカウンターに案内される。
椅子に腰を掛けるとメニュー表がない。いざ注文となると普段ウーロンハイしか飲まない男は躊躇した。
無言で注文を待つ寡黙なマスターとシャレたお酒を知らない男。
「ウィスキーのロックを」
男は勢いで注文した。
「スモーキーなのはお好きで?」
「ええ。そうですね…」
ピンとこなかったが、もはや男は何でも良かった。
マスターは氷をアイスピックでカリカリとグラスにスッポリ収まるサイズに削るとウィスキーを注いだ。
棚に戻されたビンのラベルにはタリスカーとあった。
男は勢いとはいえ、慣れないお店に入ってしまったなと。この1杯飲んだらさっさと帰ろうと思った。
しかし普段ウーロンハイの男にとってウィスキーロックはキツく、ちびちび飲むしかなかった。
マスターとの会話は無く、スマホをイジりながら口に合わない酒を頑張って減らしていく男。
すると入口の扉が開き、若い女が一人入ってきた。
慣れた様子で男の左に座るとカシスオレンジを注文した。
すると女が男に向かって言った。
「お会いするの初めてですよね?」
「ええ。初めて来ましたので」
「私はここによく来るんで常連さんの顔は覚えてるんですよ」
「そうなんですね。」
女は25歳位だろう。笑顔が素敵で可愛い。
「何を飲まれてるんですか?」
「えっ、あっタリスカーを…」
「へぇ。ウィスキーが飲める男性は格好いいですよね」
ウーロンハイを頼まなくて良かったと思いながら「そうですか?スモーキーで美味しいんですよ。良かったらお近づきの印に何か1杯ご馳走しますよ」と言った。
「ありがとうございます。じゃあカシスオレンジで」
女の2杯目に合わせるように
「マスター、タリスカーロックで」
男は覚えたてのタリスカーをおかわりした。本当はウーロンハイが飲みたいのだが。
女はマスターとの会話ではなく、ここに来るお客さんと話すのが好きなようだ。
男も久しぶりに若い娘と話し、盛り上がるうちに、いつの間にか飲み慣れないお酒もグビグビといけるようになっていた。
「彼女にもう1杯とタリスカー」
男は女の空きかけのグラスを見て言った。
チラッと腕時計を見て、時間的にこれでラストかな?と男は思っていた。
しばらくすると入口の扉が開いた。
スーツを着込んだ30歳くらいの、いかにも仕事出来そうな男性が入ってくる。
女はスーツ男を見るなり
「こんばんは。また会いましたね」
と言った。
スーツ男は常連さんのようだ。
スーツ男が女の左の席に座った。
男とスーツ男が女を挟むかたちだ。
「ボウモアのストレートと彼女にカシスオレンジ」スーツ男はサラッと告げた。
女がスーツ男の方を向き、この前の話しの続きとでもいったように話し始めた。
男はなんだか複雑な感情になった。
男はスマホをイジりながらも女のグラスの空き状況を見張った。
無くなった瞬間
「彼女にもう1杯とタリスカー」
すると女は男の方を向き
「そういえば趣味とかってあるんですか?」
と言って自分にまた戻ってきた。
男は自分の大した事のない趣味の話しをベラベラと話した。
話しに夢中になり過ぎてグラスの空き状況のチェックを忘れてしまった。
すかさずスーツ男がマスターに
「ボウモアのストレートと彼女に1杯」
また女はスーツ男の方を向いてしまった。
男は女を振り向かせる為またカシスオレンジを頼む。そんなラリーはしばらく続いた。
男はふと腕時計をみるとかなり遅い時間まで飲んでいる事に気がついた。すっかり女に夢中になってしまっていた。
明日も早いからと、さすがにマスターにお勘定を頼んだ。結構な金額ではあったが男は悪い気分では無かった。
「また会えますかね?」男が聞くと
「よく居るので次も必ず会えますよ。ご馳走さまでした」と言って笑顔で手を振ってくれた。
男は絶対また来ようと心に誓って、ライバルには目もくれず帰った。
そして女は男を見送るとマスターに言った。
「お父さん私いい加減ジュース飽きたんだけど」
するとマスターは
「仕方ないだろ。あそこのスーパーはジュースが安いんだよ」
女がスーツ男に向かって言う。
「お兄ちゃんは小さいグラスで麦茶飲んでるだけだから良いよね」
「オマエもそうすれば?」スーツ男は答えた。
するとマスターがニコニコと笑いながら
「女がウィスキーガバガバ飲んでも可愛くないだろ。やっぱりカシスオレンジってのが良いんだよ」と言った。
マスターは本当は寡黙なんかでは無いのだ。
そして帰った男は知らずに今後も通う事になるだろう。毎回2人分のお金を払うことになるが。
男性の心理を上手くついた家族経営のBARに。
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