『小鳥ことり、サクラヤマのぼれ』26
【ルリさん】
雨足がやや激しくなって来るまでに、ルリコが用意してきた簡易雨具を全員に配った。
「とっさのこととは言え、すごい見立てだったと思わない? 雨具四人分とシートが四枚」
自分とケンイチがシートを頭巾のようにかぶり、あと二枚は梅宮と智恵にかぶせてくれた。
「よかった、梅宮さん」
ケンイチが梅宮の頭をそっと持ち上げる。
「血が止まったみたいだ、骨も何でもなさそうだし」
「よかった」
カオリが息だけでかすかにそうつぶやいた。
梅宮と智恵は、今では安らいだ表情で深い息遣いをみせて熟睡している。
スヌーピーの鼻先が、今度は智恵に寄り添っていた。
「ウチ、シートでいいって」
ヒワがそう遠慮すると、ルリコは鼻をつん、と上げて
「雨具は百円ショップで買った安ものだから、そっちにしてくださる?」
意地悪な令嬢じみた言い方に、つい、ヒワも笑ってしまった。
サエには、ヒワが真新しい雨具を着せてやった。
ケンイチは、ヤベじいが雨具をつけるのを手伝ってやっていたが、動作が緩慢な祖父の様子がどうにも気になるようだった。
先ほどは少しばかり元気が戻った様子のヤベじいだったが、雨具をつけてから今はまた、小さなルリに寄り添うように座り込んで、ずっと髪を撫でてやっていた。
カオリは、父親の脇に体育座りでついていたが、容態が安定したのに安心したのか、うつらうつら船をこいでいる。
いったん座っていたケンイチはまた立ち上がり、ヤベじいの元に寄って何か耳うちした。
ヤベじいは、最初はけだるげに聞いていたが、ケンイチの早口に耳をすませ、
「そりゃ、好きにすればいいさ」
そう言ってかすかに笑った。
「おい、ルリコ」
急にケンイチが妹に声をかける。
「オマエ、どうせ持ってんだろ?」
えっ、何のこと? と立ち上がりかけたルリコに、ケンイチが、カードを切る手つきをしてみせた。ルリコはすぐに気づき、もぞもぞと、下げていたポーチをまさぐり出した。
「あるよ」
「やっぱな」
ケンイチが嬉しそうに笑みを浮かべる。
「じいちゃんも入ってよ」
ケンイチがそう言ってヤベじいの手を引っ張って、無理やりまん中まで連れて来た。
「どうせしばらく動けないんだし、ケータイも使えないしさぁ? だったらさ…………フキンシンかな?」
サエがきゃっ、と嬉しげな声をあげて手を叩く。
「サエちゃん、それ知ってるよ! ドロー2はぜったい次の人が二枚引くんだよ、でさ」
「だめだよ、サエちゃん」
ようやく、ルリコもいつもの声の調子に戻っていた。
「今夜はモトシラルール発動だからね、ドロー2二枚重ねあり、オーケー?」
「バッカじゃない」ヒワはたまらず、笑いだしていた。
「カード、ビッシャビシャになっちゃうよ。それにこんな所でゲーム?」「こんな所でゲーム、というのには確かに同意するけど」
ルリコはおごそかにUNOカードを持ち上げた。
「これね、特製の耐水仕様なんだ。じゃ、配るよ」
そのうちに目覚めたカオリにも声をかけると、最初は渋っていたが、
「あのさ」
ヒワがことばを選びながら
「お父さんのこと、心配なのよく分かる。それに怖いよね……待つだけの時間って」
カオリの手をやさしく握る。
「そんな時だからこそ、心が負けないようにしなくちゃ。そう思ったら、どうかな?」
「ルール分かんないんなら、サエちゃんが教えてあげるから! ね、いっしょにやろ」
カオリは涙で汚れた顔を上げ、ヒワを見た。
「パパ、大丈夫かな?」
「手は? あと呼吸は」
「温かい、息もふつう」
「雨が止むまで、みんなでがんばろ」
カオリは黙ってうなずき、ようやく仲間の輪に加わった。
カードゲームの合間あいまに、ヤベじいは昔語りをしてくれた。
いつかおじいちゃんの家に集い、いとこたちや近所の子どもたちと遊んだ頃を、そして親戚が集まっていろんな話をしてもらって頃を、ヒワは思い出していた。
目玉ババアと呼ばれて、いたんだね。
ルリさん、今は団地の一番奥にある、滝へのハイキングコース駐車場あたりに、その頃には掘立小屋があってね、そこにずいぶん年取ったばあさんとふたりきりで住んでいたんだよ。
ぼろぼろの身なりで、サワガニを採ったり木の実や山菜を集めて、暮らしていた。
村の連中が噂するに、バアサンとルリさんとは、昔むかし山の中に暮らしていた『クロシュウ』の最後の生き残りだと。
確かにいつも、ふたりは黒い着物を着ていたね。そして裸足で山を飛び回っていたんだ。
俺とヒロシゲと遊んでいた時に、彼女にばったりと出くわしたことがあった、そう、山の沢で。
クロシュウに遇っても、近づくな、そう言われて育って来たから、俺たちはすぐに逃げようとした、しかし何だか妙に気になって、ふたりして逆に、そっと近づいて行ったんだ。
もう中学に入っていた時だな、バアサンは少し前に亡くなり、ルリさんはひとりで暮らしていたらしい。彼女もすっかりいい娘になっていて、腰まで伸びた髪を、後ろでひとつに結っていた。
そんな彼女はその日、何をしていたかって?
ひとり、沢でイノシシをさばいていたんだよ。
木漏れ日の中で白い湯気をもうもうと上げながら黙々とイノシシをさばくルリさんを見て、俺もヒロシゲも言葉もなく、立ちつくしていた。なぜか無性に胸を打たれたんだ。
ルリさんはすぐに俺たちに気づき、すっ、と立ち上がった。凛とした声が沢に響いた。
「命は奪うものではない、いただくものだ」
それから彼女は続けて言った。
「たとえ虫いっぴきでも、鳥一羽でも、必要ならばその肉はつくねてやるさ。しかし、必要なければどんな命も、損ねてはならない」
そして、俺たちに大きなピンク色の肉を差し出した――さばいたばかりの猪の肉を。
その時俺は気づいたんだ……既に、彼女は身重だった。
誰の子どもかは、訊かなかったさ。
しかしルリさんは、本当に、満ち足りた笑みで俺たちに肉を差し出したのだ。
ただその姿が、水面の反射でちらちらと揺らめいて、とても美しかったのは、今でも覚えている。
次に出あった時には、俺はひとりきりだった。
そして彼女は山の中、神社脇にうずくまっていた。
あの日も雨だったな。
俺はあまりにも腹が減ったので、ノイチゴがあるだろうか、と神社近くまで上がっていたから、あれは初夏の頃だったな。
シャガが咲き乱れ、その中にルリさんは埋もれるようにしていた、髪は乱れにみだれ、声に出して泣いていた。
そして絞り出すようにこう言った。
―― 子どもを捕られた、貢物として。
誰かが山から豆腐石を持ち出し、その代価として、子どもをひとり差し出すよう言いつけられたらしかった。
そして標的となったのが、『どこの馬の骨とも知れぬ、クロシュウの娘の赤ご』だったのだと。
ルリさんは、腹の底から声を絞り出してこう言った。
―― アタシは、これからずっと、命尽きるまでずっと、この村の連中を呪ってやる。
ルリさんがこの村の……この地区の連中を恨んでいたのはずっと知っていたさ。
でもね、正直、ほっとはしていたんだよ。
団地の中の一軒に、ひとり住み始めた、って聞いたときにはね。
ようやく静かに、ここで暮らす気になったんだな、ってね。
呪ってやる、と言いながらもこの村の行く末を本当に、心配してくれている、そういつも、俺は感じていたんだよ。
脈絡なく、急にルリコが叫ぶ。「ちょっとそれ、ウーノ!」
いっとき場が沸きあがり、ヤベじいは穏やかな笑みを浮かべる。
何だよオマエそれ急過ぎない? ケンイチに詰め寄られて、ルリコは涼しい顔をして答えた。
「え、だってここは突っ込んでけ、ってカーコがさ」
ヒワが見上げると、白い針のような雨の中、梢に一羽、カラスが止まっていた。
さも当然という顔をして。
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