脱輪氏の「叫びとささやき」について
※この記事は文学サークル「お茶代」の課題として作成しました。全文無料でお読みいただけます。
閉ざされた〈島宇宙〉
脱輪氏による140字以内の発言がまとめられた「叫びとささやき」では、「消費」と「批評」が、繰り返し触れられる重要なテーマである。ここではまず、現代における消費のあり方を分析し、次いで氏なりの、これに対する処方箋について考える。
アーバンギャルド15周年を記念した同人誌「大卒業交響楽」に収録されている、「イグジット・スルー・ザ・代理満足ギフトショップ〜アーバンギャルド『アバンデミック』批判/twinpale『ショートケーカーズ』礼賛から生活のアナキズムへのドライブスルー~」(以下「『アバンデミック』批判」と表記)。
ここで脱輪氏は、ロックバンド「アーバンギャルドのファンダム(ファンによって形作られる言葉の空間)には批評が欠如している(太線は引用者)」と述べている。
これは何もアーバンギャルドに限らず、 現代のサブカルチャー(もはや文化においても「正統」が不在の昨今、この言葉はやや皮肉めいて聞こえる)コンテンツ一般に、広く見られる特徴と言えよう。
宮台真司『「絶望の時代」の希望の恋愛学』によると、「性的領域に限らず、オタク領域までをも含めて、90年代後半には〈過剰さというイタサの忌避〉が一般化した(太線は引用者)」。援助交際ブームが終わる「97年を境に、オタク的コミュニケーションが〈蘊蓄をめぐる競争〉から〈話題をシェアする戯れ〉にシフト」するのだ。また、インターネットの出現は〈摩擦係数の低いコミュニケーション〉をもたらし、「〈島宇宙化〉を加速」させる。
他者の無限性を拒絶する〈島宇宙化〉は、村落共同体のような、閉じられた安全な空間を求めた結果でもあるのだろう。しかしそこには、人々を「庶民」たらしめていたコモン・センス、良識の面影さえも見当たらない。そうした中、他者の無限性への拒絶は、〈島宇宙〉における批評の不在という形態としても現れる。
「推し活」の心理
先ほど述べた消費文化の現状を踏まえ、脱輪氏は批評という、一種の劇薬を用いて治療を試みる。患者は誰なのか、という問いかけは、ここではナンセンスだ。改めて後段で触れよう。
crisis(危機)はcriterion(基準)・critique(批評・批判)と同じく、古代ギリシャ語 krino(クリノ・判決を下す)を語源に持つ。critique とは criterion に従い、「運命を決めるようなこと」としての crisis へと導く行為なのである。その裁きは時に論じられる対象へ、時に読者へと向けられる。これを何としてでも避けたい、〈島宇宙〉の住人たちは何に縋りつくのか。そう、「推し活」である。
「『アバンデミック』批判」にて脱輪氏は、「推し」の本質を「あえてする余剰的な経済活動の実態そのもの(太線は引用者)」だと見事に言い当てている。また、その購買活動によって当人は、批評する責任を免れるのだという。確かに金銭は、数字を用いる立派なコミュニケーション・ツールだが、そのやり取りは量によるものであり、質は捨象される。ここが問題なのである。
「よいもの」を「よいもの」として判断し、選び取ることは、どのような形式であれ、krino(判決を下す)することだと言える。これが自分にも向けられることに人々は無自覚だから、あろうことか自分で掲げた criterion(基準)に傷ついてしまう。
だがそれは、「よいもの」について語る責任、つまり応答可能性を引き受けることと比べれば、些細な苦しみに過ぎない——こう考えるようになるのだ。
「己れの夢を懐疑的に語る」
そうした症状から抜け出すにはどうすればよいのか。「よいもの」を通して自分自身を語り、その痛みを引き受け、乗り越えることだろう。小林秀雄流に言えば、「己れの夢を懐疑的に語る(『様々なる意匠』)」ということだ。
小林は当時流行っていた、「様々なる意匠」を用いた批評を否定する。脱輪氏が警戒する、「ひろえもん」的コスパ主義も、「自由」や「多様性」概念の誤った運用も、その変形と言える。
言葉は人が操るものだと、世間一般の人間は信じて疑わない。しかしそのうちの大多数は、他でもない言葉によって踊らされていることだろう。「これこそが真実なのだろう」「凄いことを言っているようだ」と思わせる言葉の恐ろしさを語りつつ、それ自体に化けているのが、小林のあの複雑怪奇な文体なのである。
ただ、criterion(基準)は critique(批評・批判)する上で欠かせない。「様々なる意匠」への墮落を、いかにして防ぐのか。それはやはり、脱輪氏の言う「文脈」を、絶えず参照し続けるしかないのではなかろうか。人は過ちに満ちているものなのだから、一度為された critique はやがて改訂されるであろうし、そうされるべきなのである。そうして絶えず改訂され、「文脈」となっていくであろうから、その過ちに価値が宿るのである。
「物神学」と現代社会
この「物神学」なる単語は造語である。以前、脱輪氏が僕の話を聞いて思いついたというので拝借する。
3年前の4月にはぼんやりと、「物神学」の構想が生まれていた。これを数年間構想を練り続けている長篇小説で表現しようと悪戦苦闘、気づけば長い時間が経っていた。だから千坂恭二氏が、「資本論」をそのように読まれていることに驚いた。我々が思いつくことの大半は、先人が既に主張していることなのである。
マルクスは人間の本質を「社会的諸関係の総体」とした(「フォイエルバッハに関するテーゼ」)。千坂氏の言うように、「社会的諸関係」はフォイエルバッハが否定したはずの「神」となったのであり、「使用価値と交換価値の関係」とも言い換えられる。
マルクスの資本主義社会の分析は、一般的なそれであって、国家・地域単位の個別性を尊重する方がより誠実であろう。ただし彼の為した仕事は傾聴に値するし、資本によるグローバリゼーションが押し進められた現代、皮肉にも重要度を増している。
結論を述べておこう。
脱輪氏が指摘する、批評を否定してまで必死に続けられる「推し活」、「ひろえもん」的コスパニヒリズム、コロナ禍において加速した空間の軽視。これらはすべて、物神として現れる資本の意志が深く関係している。
僕にはマルクスが、神学的な意図を持って、次のような美しい修辞を用いたとしか考えられない。
価値(交換価値)という「たましい」は絶えず転生を続ける。購買G-Wとは、金 Geld から商品 Wareという姿へのそれを実現させる儀式と言える。販売W-Gはその逆である。なお、スピノザは定在 Dasein を明確に、Godの一部として論じている。
資本制生産様式が支配的である社会において、その富は、商品の膨大な集積として現れる——「資本論」の有名な序文である。ここでマルクスは、「現れる」とすることでアダム・スミスの「国富論」を相対化しつつ、スピノザからヘーゲルへ至る、汎神論争の流れを仄めかしている。商品が定在 Dasein ならば、その集積である「富」は、Godとしての「自然」である。
購買と販売の連環よる資本の自己増殖には、「つぎつぎになりゆくいきほひ」という丸山眞男の言葉を彷彿とさせるものがある(「歴史意識の古層」)。ただしここにおける「自然」が宿すのは、神道が考えるような活力ある生命の力ではなく、ぬくみを欠いた専ら抽象としての数字である。
こうした構造に対し人間は使役するのではなく、むしろ使役される。「経済学批判」序言で述べられているように、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」。生き延びるための商品を買うには、雇われることで自らを商品化しなければならない。資本家にその必要はないけれど、その他の資本家と競争に晒され、絶えず資本を増殖させるように強いられる。資本家はいわば、資本という神に仕える神主なのである。
この否定されるべきGodについての学をうち立てたマルクスに対し、我々はどのような形で応答できるのだろうか。脱輪氏が運営する「お茶代」は、その偽物の神が展開する構造を利用した抵抗運動といえる。彼が言及を繰り返している、身体性というテーマ。この資本が敵視する、自我と空間の境目こそが、抵抗の拠点となるのは確かなことなのだろう。
その他リンク
「先程見てきた論を、アーティストのファンによる同人誌において展開する脱輪氏は、〈島宇宙〉という趣味共同体に新たな criterion(基準)をもたらす、ある種のマレビトだと言えはしまいか。(続)
ファンは、「推しは素晴らしい」という解答が導き出される己のうちの「文脈」を疑えない。
故にその「外部」から「やってくる」(郡司ペギオ幸夫)、他者による批評を受け止められないのだ。
両者が「恨みの連鎖」という点で共通しているのは決して偶然ではない。
〈物格化〉とはつまり人間を商品として扱うことであり、他者を通して繰り返される復讐なのである。
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