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オンライン読書会「わたしが味わう歎異抄」

オンライン読書会「わたしが味わう歎異抄」
9月〜11月2週間のペースで全6回の会が無事に終わりました。

この会は日野唯香史上、初企画であり、これ以上のものはできない!!というほど、全身全霊をかけて取り組みました。
そのおかげで、終わってしまった今は抜け殻みたいになっていますが、振り返っておきたいと思います。

そもそもこの企画は、ふっと歎異抄をみんなで読みたいなという何気ない思いつきから始まりました。

幸いにも、小出遥子さんの「さとり本読書会」に参加してお手本を見せてもらい、
こんな場で「歎異抄」ならもっと面白いなと思ったこと、そして企画できる場、状況が調っていたということが言えますが、つまるところ、ご縁だったなと思います。

自分が企画をして、案内役としてその中心にいられるくらい、
それだけ自分自身のからだ全体が何かを発信したい!という思いが漏れ出ていたのだと思います。

ですが、自分から言い出したのに、とてつもなく怖くて、初回を迎えるまでは、震えるように「こわいこわい」言っていたのですが、初回を終えた時、すべてが吹っ飛びました。

「あぁ、なんてたのしいんだ!!」と。
世の中にこんなに楽しいことがあるんだと。

なぜなら、自分がほんとうにやりたいことをやっているから。これですね。

ほんとうにやりたいことって、日野唯香としてのいのちとしてのお役目、魂レベルでやりたいことです。

しかもやりたい!と思っていることが実現し、そこに人が集まってきてくれる・・・
こんな最高なことってないなと思いました。

仕合わせってこういうことなんだと、
縁が調っていくこと、それが仕合わせになるのだとそう思いました。

「わたしが味わう歎異抄」

もともと歎異抄は大好きで、いつか歎異抄を読む会ができたらいいな・・・と思っていましたが、
なんせ浄土真宗、親鸞聖人の語録でもあり、
偉大な先生方が、講座を持たれているのに、こんな真宗僧侶の中では、下っ端の下っ端な私です。
浄土真宗の中で、法話ができる人に与えられる布教師の資格ももちろんありません。
そんなわたしが、歎異抄を案内役として企画する・・・

そんな恐れ多いと思っていたことを実際にやったのですから、
プレッシャーは半端なく、いつ”読書会なんて・・・”とお叱りを受けないかと冷や冷やしたものでした。

そんな中で、どのような会にするかは、かなり悩みましたが、行き着いたところは、わたしが受け取っている歎異抄のことば、お念仏の教えを感じたまま、そのまま伝えるということでした。

それが、わたしとしてはとても良かったなぁと思います。

会の準備をしていく中で、わたし自身が仏教に出会い、僧侶になり、苦しみから救われたのもすべて歎異抄がきっかけとなっていることに気づきました。

「わたしの人生は歎異抄と折り重なっている」
そして、親鸞聖人のことば、態度、生き方・・・そこにわたしのおなかの中心が響き合うのだと思いました。

「親鸞一人がためなりけり」

親鸞聖人はお念仏の教えはわたし一人のためであったのだという受け取り方をされます。

ここから閃いた、この会のテーマ「わたしが味わう歎異抄」

唯香一人(いちにん)のための教えとして受け取った味わいを語ろうと思いました。
もちろん唯香一人が味わう歎異抄を語りながらも、参加者おひとりおひとりの味わいを語れる会にしたい!そんなところから生まれたテーマです。

「からだ」という視点

「わたしが味わう」でもありましたが、「からだで味わう」も大きなテーマでした。
声に出して、からだに響かせて読む。

何かを理解するとき、人間はからだで感じます。
ほんとうにわかったときは、腑に落ちるという形でそのことを、からだで受け取り、そして頭に上げて整理し、理解していきます。

歎異抄のことばって、素晴らしい名文が多くてついつい声に出して読みたくなるんです。その体感を参加者で味わいたいというのがありました。
オンラインでの会でしたが、静坐の時間を取って、からだに意識を向けてもらった上で、歎異抄の言葉が自分の声という音になって、届いてくるものを感じました。
意味がわからなくても、理解できなくても、その言葉に乗っている気のようなものが、伝わればいいなと。

歎異抄を通して深まる会

毎回、グループや全体で感想をシェアしたり、終わった後感想フォームを書いてもらうのですが、それぞれから現れてくることばにいつも感動していました。
それはいわゆる”正解”の感想ではなかったこと。その方の率直に感じられたことばが綴られていました。

おひとりおひとりが、歎異抄を読んでみて、どう感じるか、自身の体験、経験が呼び起こされる、体感からのことばでした。

それがほんとうにすばらしく、何よりそれが聞けることが嬉しかったです。

この会を進める中で、最も驚いたことは、

歎異抄について、ただ、わたしが感じたことを語っている会なのに、「他力」について、「ご縁」について、自然としかも体験的な語りが参加者の中から出てきたことでした。

決してわたしが説明したわけではない、でもそれが伝わっている。

不思議な深まりでした。
わたしがしたことではない、他力のはたらきを感じました。

結論、歎異抄を読む会でしたが、歎異抄を読む会ではありませんでした。
歎異抄という書物は、そのままわたしを映し出す鏡のようなものであり、わたし自身を照らし出してくれる光のようなものでした。

どのように受け取るか。
どのように生きるかを問いかけてくる。

わたしの生き方を考える。
あの世を通してわたしのいまを考える。
いまここでわたしを味わうことを感じる会。

そんな会に出会えたことがわたしのそのままの喜び(踊躍歓喜)です!

さいごに・・・
この会を後押ししてくださった他力本願寺のみなさま、参加してくれたみなさま、この会に関わってくださったすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

自分が企画しておきながら恐縮ですが、おかげさまで素晴らしい場になりました。
それは私の力ではなく、すべての大きなはたらきによるものだと、他力がいまここに届いていることを感じさせていただきました。

合掌

なんまんだぶ
なもあみだぶつ
南無阿弥陀仏

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