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手に入れることよりも、むしろ失うことが、喜びをもたらす

私は、知らないところを歩くのが好きだ。旅行でもいいが、やはり住んでみたい。
いままで、20回以上引越しをした。
アジア、アフリカ、南米には住んでいたことがある。そのうち、ヨーロッパにも滞在してみたい。
けれども最初は、大阪から始まった。

10年ほど前のことだ。長らく住んでいた東京を離れ、大阪に移住した。

私はコンピュータ業界で仕事をしていて、いつからか夢ができた。
仕事をすべてオンラインで受けられるようにすること。
そして地球上のどこか別の場所に住んでみること。
そんな自由な暮らしをしてみたくなった。
いまはコロナの影響で、オンラインで仕事をするのは普通になったが、当時はまだ例外的だった。

何年も温めてきたそんな夢を、大阪への移住を通して実現した。
大阪といっても、和歌山に近い田舎だった。
高いビルに囲まれた東京の人工的な景色とは違い、潮風がさわやかに吹く、自然の豊かな場所だった。
海と山にはさまれて、小さな村のような街が佇んでいた。

ついに夢を叶えた!と思った。
仕事は、1日1時間もすれば、使いきれない収入を得ることができた。
残りの時間で、遊ぶことばかり考えた。
ものすごい自由に、息がつまりそうだった!
毎日、興奮しながら海辺や山道を歩き、ショッピングモールに行き、宝くじにあたった人のように自由を満喫した。

そんなある日のことだった。
家から海辺の公園に行く道の横にある畑で、サツマイモを収穫しているおばさんがいた。
妻があいさつして、畑の話をいろいろ聞いた。
おばさんは、「これ、よかったら」と言って、サツマイモをたくさんくれた。
私は本当に驚いた。
道を歩いていただけなのに、知らない人からサツマイモをもらうなんて、東京では経験したことがなかった。
遠慮せずにお礼を言ってサツマイモを受け取って、また海への道を歩いた。
歩いている間じゅう、おばさんのことを思い出して、ニコニコと笑顔が止まらなかった。

またある日は、庭の栗の木から落ちた栗を集めているおばさんから、栗をもらったこともあった。
10年経ったいま思い出しても、自然と笑顔になる。

そんなことこそが、人生の甘い果実なのかもしれない。

ジャン=ジャック・ルソーが晩年に書いた手記『孤独な散歩者の夢想』に、こんなエピソードがある。
ルソーが散策していたとき、20人ほどの少女たちが騒いでいるのが見えた。
子供たちは、お菓子売りの前で、的をあててお菓子をもらうゲームをしたがっているのだった。
お小遣いを持っている子は、数人しかいなかった。
ルソーは、お金を出して、その子たち全員がゲームができるようにしてあげた。
さらに、お菓子売りに耳打ちして、いつもより余分にあたるように、取り計らってあげた。
子供たちの喜びようは、例えようもなかった!

さらにルソーは、お菓子がたくさんあたった子には、わけてあげるように、すすめてあげた。
こうして、どの子も平等にお菓子をもらった。
けれども、最初から平等にお菓子を買って配るより、はるかに大きな興奮と喜びをもたらした!

こうしてルソーは、喜びの本質が、何かを手に入れることそのものではなく、分けてもらうこと、分けてあげること、そんな気持ちの受け渡しにあることを、理解した。
自分でお金を出してお菓子を買えば、お菓子は手に入るが、決してそんな喜びは得られない。
手に入れることよりも、むしろ失うことが、喜びをもたらすのだ。

私はサツマイモをくれたおばさんのことを思い出しながら、誰かに出会いたくなった。
おばさんのように、誰かに何かを分け与えてあげられる人になりたくなった。
豊かな自然に囲まれて、妻と静かに過ごす田舎暮らしも貴重な経験だったが、うるさいところで人間関係のストレスを感じながら過ごす街の暮らしをしてみたくなった。
自由な暮らしもいいが、不自由な暮らしもいいものだ。

数ヶ月過ぎて、私は大阪を去って韓国に移住した。
大阪にいる間、サツマイモ畑の横を何度か通り過ぎたが、あのときのおばさんには会えずじまいだった。

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