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三つ子育児 終わりを意識した育児

四児の父。三つ子とお姉ちゃん育児奮闘中です。令和になって三つ子が生まれました。お姉ちゃんのときはオムツ替え実質2回の育児全然しなかった父親が三つ子と向き合う中で考えたことを記します。

今回は、「三つ子育児 終わりを意識した育児」について書いていこうと思います。

ルーティン変更

ルーティンの変更は突然にやってきた。1歳すぎから2歳あたりまでの育児で「寝かしつけ」と「お風呂(体洗って湯船につけるところまで)」は、自分がやることが多かった。お風呂は夕飯前に済ませるパターン。

二歳過ぎたころ、保育園から帰ってきてお『風呂が先でご飯』のルーチンだと三つ子が、"ぐずる"ことが増えてきた。

お姉ちゃんの夏休み明けてからちょっとたったある日、ルーティンを入れ替えてみることにした。つまり、「保育園から帰ったら、ご飯先でお風呂は後。そして、お風呂はお母さんと入ろう。」と。

最初は、ご飯の用意やらお風呂上がったあとの体拭いたりパジャマ着せたりでどっちがどうするとか、お姉ちゃんは、どうするとかあたふたしたこともあったけど、不思議なもので新たなルーティンが出来上がり、一定のパターンができると、色々すんなり行き始めた。

しかし一方、お母さんの負担が大きくなったことは確かなので、別の部分で自分は貢献しないといけないのだがそれは、それ。ここではあまり深追いしない。

振り返ってみると、0·1歳ごろの三つ子の子育てでの『ルーティン化』は、やはりポイントだったなァ。と改めて感じた。同時にルーティン変更時の寂しさを感じたので、今回は、その点について考えていきたいと思う。

寂しさの先にあるもの

三つ子は、2歳を超えて自分の意思が出てきた。「これがイイ。」「あれはイヤ。」いわゆるイヤイヤ期。

その対応としてルーティンの変更をしてみた。すると、自分としては、お風呂も寝かしつけもお母さんとなってしまい寂しさを感じてしまったのだった。しかも、このルーティンの変更は思いつきで変更し実施したので、自分にとっては、突然やってくることになったのだ。つまり、『あァこれが最後のお風呂か。。。』と噛みしめることもなく三つ子と湯船に浸かることがなくなってしまった。

はっきりと自分たちの意思でなにかを変えようとした場合、例えば「離乳食を三回食にしてミルクをやめよう」の場合、『あァこれが最後のミルクか、、、』と噛みしめることができるかもしれない。それと違い、手を繋ぐとか靴を履かせるとか何気ない行為に対しては、終わりを意識することは難しいかもしれない。

靴を履けるようになったとき、子どもにとっては自分でできることが増えて嬉しいだろう。親も子どもの出来ることに目が言ってしまいがちだ。それは子どもにとっては「自分で靴を履くこと始まり」だが、親にとっての「靴を履かせることの終わり」であることを意識することはあまりないように思う。子どもが、できるようになることに目がいくのは自然なことだから。そして、その変化は徐々にやってくるのだ。

終わりを考えながらの育児。なんとも難しいテーマである。なかなかできないと思う。しかし、終わりを考えながらの育児を意識し、そしてその変化はだんだんとやってくることに気がついたそのとき、「今この瞬間を大事にする育児」やがようやく始まるのかもしれない。

イライラの原因

思えば、三つ子に対しての自分のイヤイヤが始まったとき、一つの育児の終わりが来ていたのかもしれない。
妻は、自己主張が出てきた三つ子に対して一つの育児の終わりを意識して「その瞬間を大事に」していたのかもしれない。
自分は、自己主張が出てきた三つ子に対してイライラ、イライラして、まるで自分が子供のようだった。(今もイライラしてしまうこと多々あり。)

お姉ちゃんのときに、オムツ替え2回、出張ばかりで顔忘れられるんじゃないかというような生活していたのでは気がつく事ができなかった気持ちである。

そのイライラは「その瞬間を大事にしたいと思う気持ち」に気がついたことで少し収まってきている(気がする)。育休をとって、時短勤務して、三つ子の子どもたちと向き合った結果ようやく気がつく事ができたのだ。

育児の終わりを意識すると育児も違って見えるかもしれない。

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