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宗教二世がフランスで考えた中上健次と社会物語学のこと : 物語=差別のメカニズムを探る:開かれた豊かな文学 1/2

(連載の続きになります。これまでの記事はこちら。)

 前回は中上健次が自身が部落出身であることを打ち明け、差別というものについて語りはじめた時代背景を見た。そこで中上が1976年に匿名性と固有性、現実と虚構のあわいを揺れるような「路地」という言葉づかいを発見していたことや、1977年の『枯木灘』の完成から間もなくして現実の「路地」の取り壊しが始まったこと、中上が差別を日本文化の核心にあるものとして読みかえ、賤なるものの「発揚」を試みたことなどを確認した。ここでは、ルポルタージュ『紀州』(̇Œ7)を補助線としながら差別をめぐる議論を取りあげ、その物語論的な変奏とも言える連続講演会「開かれた豊かな文学」(Œ12)での議論を追っていきたい。

震える穴のアナロジー

 中上の物語論では前期においても後期においても穴のメタファーがきわめて重要な役割を果たすことになる。さまざまな形の穴という穴が連想《アナロジー》の編み目を形作り、なかば電化を帯びたように揺らぐことによって、中上の思考はある種の含みとも奥行きとも言えるようなものを獲得する。
 穴というものには、興味深い特徴がある。穴には、極小のものもあれば巨大なものもあるし、拡張性や収縮性を持ったものもある。また、それ自体が一つの場所にもなることもあれば、「孔」としてある場所に穿たれることでそのむこう側へと至る出入り口になることもある。穴をくぐりぬけるということは、外に出ることでも、中に入ることでもある。空間が複数あるということ。ひいては、複数の内や外があるということ。見るということは、見られるということでもあるということ。穴は、そのはじめのしるしであるとでも言えるだろうか。穴があるから、内と外とが反転可能になる。いわゆるメビウスの帯やそれを三次元にしたクラインの壺のように、穴は視野というものが一方の側に固着するのを防いでくれる。
 中上の思考には無数の穴が登場する。それぞれ形は違うものの、ひとつの共通点がある。どの穴もきまって震えている、ということだ。震えているということは、周囲を震わせているということでもある。水面に揺れる光の輪のように輪郭が定まらず、謎めいたままでいる。そのような穴の典型のひとつとして挙げられるのが「竹原秋幸三部作」の主人公、秋幸の体である。『枯木灘』では、秋幸の体を形容するために「がらんどう」という語が七度にわたって使われている。がらんどうの穴として想起された体躯は、ギターのサウンドホール、あるいはコンサートホールのように、周囲のものに過敏に共振する。また、それゆえに音を増幅させるような音響装置としての働きを持つことになる。

働き出して日がやっと自分の体を染めるのを秋幸は感じた。汗が皮膚の代わりに一枚膜をはり、それがかすかな風を感じるのだった。自分の影が土の上に伸び、その土をつるはしで掘る。シャベルですくう。呼吸の音が、ただ腕と腹の筋肉だけのがらんどうの体腔から、日にあぶられた土のにおいのする空気、めくれあがる土に共鳴した。土が呼吸しているのだった。空気が呼吸しているのだった。いや山の風景が呼吸していた。秋幸は、その働いている体の中がただ穴のようにあいた自分が、昔を持ち今をもってしまうのが不思議に思えた。(Œ1)

 この描写からは、中上にとっての穴というものが単なる音響装置にとどまらないことも伺える。視覚(光)、触覚(風)、嗅覚(土)までも巻きこみ、異なる次元を共感覚的に統合することのできる空間でもあるようだ。異なる次元の仲介者であるということは、レヴィ=ストロースの理解する「マナ」というメラネシア語、あるいは「もの」という日本語の特徴でもあった。それが不特定のもの、匿名のものであるということによって、不透明であることによって、あらゆるものを受けいれる器になる。中上の言葉づかいにおいては、謎めきながら震える穴のメタファーがまさにさまざまなマナ語へと形を変えて繰りかえし登場することになる。
 連続講義「開かれた豊かな文学」において中上が好んで使った言葉のひとつが「うつほ」である。うつほとは「中がからであること。中がからになっているところ。中がからなもの。うつろ。うろ。岩や朽木などの空洞。ほら穴。また、岩や木などが組み合わさって、ほら穴のようになっている所」と日本国語大辞典にある。
 第三回目にあたる講義は「うつほからの響き 神話から物語へ」と題されていた。中上はそこで文字通りうつほが響くということ、それゆえにある種の熱量を持っていることに関心を寄せる。そして、うつほはどこにでも形を変えてあるものなのだという。

月に一回こうして新宮に来て、みなさんに文化、文学の新しい読み直しや書き直しみたいなものを、新しい視点でとつとつと話してみるという、それはこう自分の中のある何か熱情みたいなもんだろうと思うんです。[…]自分の胸っていうか、腹っていうか、自分のなかに空洞みたいな、穴ぼこみたいなのがあって、そこはこうがらんどうで、ぼおっと燃えている。[…]今ここで喋っていることも、東京でものを書いていることも、いろんなことがその自分の熱病みたいなもんで動いているんじゃないかと考えるんです。その熱病が一体、どこから出てくるか。つまりぽっかりと意味もなしに空いた、空洞みたいなものから出てくるんじゃないか。そういう気がするんです。今日はその空洞のことについて、みなさんに話したいわけなんです。その穴ぼこにもいろんな形があるんです。人間の体の中に空いた穴ぼこ。それから、自分の周りにある社会の方に空いた穴ぼことか。その穴ぼこ、空洞と書きまして、古語で〝うつほ〟っていう言葉があります。[…]あるテーゼみたいなものを出しますと、このうつほこそが芸術、文化いっさいの根源ではないか。いっさいの発生する場所ではないか。(Œ12)

 中上は以上の前置きをしたかと思うと、唐突にフラメンコギターの演奏の音源を流しはじめる。前年にスペイン旅行をしたときに聴いたジプシーの音楽だという。「スペインの被差別者であるジプシー」は、かつて「スペインの山のほら穴みたいなとこに住んどったらしい」。自分が話しているうつほからの響きのことを「そのほら穴の響きとして、音楽としてとってもらってもいい」という。
 この時点ですでにさまざまな穴の変奏が行われていること、それらの穴のアナロジーが連想の網の目を作りはじめていることがわかる。中上の体の中に空いたとされるがらんどうの穴。ギターのサウンドホール。スペインの山中の洞穴。これらの「うつほ」が見えないトンネルのように通じあい、共鳴しあっている。
 このとき中上のいう「響き」とは、単なる空気の振動のことではないようだ。むしろ、穴として想起されたものの同一性を揺るがすような震え、振れ、共振として理解できる。ある特定の「物・者」が輪郭を失い、不特定で匿名的な「モノ」へと振れてゆく。マテリアルな次元とセミオティックな次元の区別が失われてゆく。ジプシーの音楽として聴きとられるギターのサウンドホールの震えも、作家の身体に穿たれたものとして想像される空洞の震えも、たがいの共振による不透明性のなかで等価物として結びつけられてゆく。
 これは中上の思考の癖のようなものだ。連想による揺らぎを振り子にして発想を飛躍させようとする。そして、そのような思考の動き自体にいちいち付きあう必要はない。ただ、ここで着目すべきなのは、中上がパフォーマティブな次元で実演してみせている穴のメタファーの揺れを物語論の枠組みにおいて記述しようとするということだ。
 中上はそこで宇津保物語の「うつほ」に言及し、それを震える穴のネットワークに接続させる。その背景には、中上自身が当時、宇津保物語の翻案を手がけていたということもあったのだろう。源氏物語を三度にわたって現代語訳した谷崎潤一郎への対抗心を抱きつつ、源氏物語よりもさらに古い日本文学の源流を探りたいという腹づもりがあったようだ。物語の筋を簡単に紹介しておこう。
 むかし清原俊蔭という詩歌の天才がいた。十六歳で唐に遣わされるが、道中で嵐に襲われ、波斯(ペルシア)国まで流されてしまう。そこで天人に出会い、琴を授かって帰国。その後、生まれた一人娘に琴の秘曲をすべて伝授して世を去る。ひとり残された娘が琴を鳴らしていると、それが通りがかりの貴公子の心を引き、一夜の契りで子を身ごもる。その結果、私生児として生まれた子が仲忠だった。母子は世を忍ぶようにして熊野の山中に入り、動物たちに助けられながら古木のうつほで細々と暮らしはじめる。あるとき、仲忠が母から琴の手ほどきを受けていると、貴公子がそれをふたたび耳にとめ、親子としての再会を果たす。そうして京に戻った後、仲忠は琴の力によって大納言にまで出世し、物語はめでたく幕を閉じる。
 ここでは、穴というものの伸縮性が入れ子構造の形をとって物語に書きこまれているということに注目したい。ペルシャの琴はサウンドホールを震わせることで、つまり木の箱を共振させることによって、音を増幅させる。宇津保物語ではそれをさらに古木のうつほが包みこむことで、古木が共振し、音はさらに増幅する。さらには、それを熊野の森が包みこんでいるとも言えるだろうし、もっといえば、巻物という物質がその物語を包みこんでいると考えてみることもできる。入れ子状になったひとつひとつの媒介、メディアが共振しながら音や言葉の通り道となる。
 ジプシー音楽を流すという事前の段取りは、この入れ子構造を先取りする形でなぞっておくためのものだったとも言える。ギターのサウンドホールがあり、洞穴があり、山があり、それらがたがいの媒介者になることで音が増幅される。それがさらに宇津保物語の発するうつほの響きと共鳴しあう。
 中上はこのようなレトリックを駆使しつつ無数の穴を共振させることで、倍音の豊かなポリフォニーのようなものを作りだそうとする。これは単に、音というマテリアルな「物」の響きを複層化させようとしている、ということではない。それと同時に、「うつほ」という語の含意(コノテーション)、つまりセミオティックな次元の複層性をも豊かにするためのレトリックである。そうすることで、ちょうど現実と虚構のボーダーを錯乱させる「路地」がそうだったように「うつほ」という語も意味の決定不可能なマナ語へと形を変えることになると言えるだろう。
 中上は無数のうつほをめぐる連想の糸を張りめぐらせた上で、ひとつの主張をする。こうしていたるところで融通無碍に形を変えつつ震えている「このうつほこそが芸術、文化いっさいの根源ではないか」という主張である。物語や音楽をはじめとする芸術の起源をめぐっては、自身が理想とする短編小説=フリージャズのルーツには「土のコード」と呼べるようなものがある、という主張を1976年の時点ですでにしていた。ここでの主張はその亜種ということになるが、中上はさらに一歩踏みこみ、二重の意味において物語論的なアプローチを取ろうとする。第一に、構造主義的なテキスト分析としての物語論。第二に、狭義には作り物語というジャンルに括られる日本の古典群をめぐる議論としての物語論である。
 具体的な論拠は提示されていないものの、中上によれば、説経節などの語り物を含む日本の古典には、ナラトロジカルな構造の次元で「うつほからの響き」とでも呼べるようななんらかの起源、あるいはその痕跡がある。実際、物語文学の伝統に目をむけてみても、竹取物語や宇津保物語にはそれが竹や木の空洞といった表象をとおして書きこまれている。そして、そのような空間こそが文化=差別によって生じたものであり、その点、春日をはじめとする被差別部落も同じ「うつほ」である、という。そうである以上、なぜ物語があるのかと問うことは、なぜ部落があるのかと問うに等しい、と中上は考えたのだった。

太陽肛門を出入りするモノ

  中上が前期物語論の出発点とした主張は、小説の構造と差別の構造と同じである、というものだった。連続講演会「開かれた豊かな文学」ではさらに一歩踏みこみ、被差別部落とは文化=差別によって生じた「うつほ」のようなものであるという。中上はさらにそれを「疑似神話空間」と呼びかえ、その発生のメカニズムを物語論的に解き明かそうとする。この点に関連して、中上は次のようにふりかえっている。

私が着目したのは、かぐや姫の竹の筒、[宇津保物語の主人公]仲忠のうつほ、つまりはそれは擬似神話空間であるが、現実の被差別部落と同一の働きをしているのではないかという事である。そこから、差別というものがなにもかもを物語の中に繰り込む事を言い、王朝のやんごとない人々の行き来する物語の舞台も、この擬似神話空間つまり被差別部落の模造ではないかと言った。私小説が何故面白いのか、というのも伊藤整の文壇は特殊部落なりという発言をふまえなくともこの擬似神話空間説で解ける。(Œ12)

 中上のいう疑似神話空間が文化=差別の働きによって発生するということは、ある任意の空間、たとえば部落というものがあって、それが差別という被害を受けるということではない。そうではなく、そもそも部落を部落として存在させるような根源的な働きがあるということである。中上はそれを文化=差別と呼び、ここでは「物語の中に繰り込む事」と定義しているが、その意味は不明である。
 ここではさしあたり、中上のいう文化=差別という働きについて掘りさげてみたい。この点に関しては、中上は山口昌男のような文化人類学者から多くを学んでいたようだ。「物語/反物語をめぐる150冊」(Œ21)と題して1984年に公開された中上のコレクションには、山口昌男がそれぞれ1975年に発表していた『文化と両義性』と『道化の民俗学』が挙げられている。それらを手にとってみると、ルポルタージュ『紀州』での議論や、その後のボーダーをめぐる議論に重なるところがあることがわかる。そこで、山口昌男のいう文化や周縁の概念を補助線としつつ、疑似神話空間の発生をめぐる中上の議論を読み進めることにしたい。
 山口昌男(1975)によれば、文化とは中心としての自己を周縁から分化するシステムのことである。中華思想もその一例である。すでに文明化された空間は化内、まだ文明化されていない外部の空間は化外と呼ばれて、区別された。このように一つのパースペクティブを切り開くような二項対立そのものが抽象的な意味でのシステムである。このとき気をつけなければならないのは、両者はコインの裏表のように不可分であるということだ。化外がなければ、化内もない。周縁とは、中心の裏面、いわばネガにあたる。その点で、周縁はあくまでも文化の一部である。文化は周縁を周縁として「排除しつつも、文化の全体性の不可欠の部分として保持しておく」と山口はいう。
 中上のいう文化=差別にも、このような中心と周縁の分化の働きがあると考えられる。中上によれば、文化=差別とは「差別、被差別という関係構造」(Œ7)そのもののことである。差別するコトと差別されるモノ(物・者)の分化である。言い方を変えれば、不特定のモノを特定のモノ(物・者)として存在させるコト。それが差別である。中上のいう差別は、その点、きわめて抽象的な意味、ある種のシステム論的な意味での「区別」として理解することができるだろう。物語論的にはそれが「なにもかもを物語の中に繰り込む事」ということになるだろうか。
 中上はこのようなシステムの働きを想定しつつ、それによって生みだされた周縁的な者や空間についての考察を試みる。周縁はあくまでも文化の内部にある。文化がなければ、中心と周縁の区別もない。そんな文化にとって、文化の外部にあるのは、無である。見方を変えれば、周縁とは、文化と無の境界のことであるとも考えられるだろう。「夜は、昼の絶対的対立者ではなく、その彼方にある空無と昼の仲介者的相貌を帯びている」と山口も述べているように、周縁は内と外の仲介者としての役割を果たす。また、境界は、つねに多義的な場であり「二つの矛盾するものが同時に現われることができる」ような場でもあるようだ。山口は次のように言う。

文化は様々の形で、周縁を生産・再生産・維持してきた[…]。周縁的な事物についての概念は、それが明確な意識から遠ざかっている故に、「暖味性」を帯びている。暖味というのは多義的であるということに他ならない。多義性は、そこで、分割するより綜合、新らしい結びつきを可能にする。何故ならば一つの語が多義的であるということは、表層的な意味では、他の語との弁別性を前提として意味作用を行っても、潜在的には更に別の他の語と結びついているということを意味する。(山口 1975)

 中上のいう疑似神話空間=うつほにも、まさにこのような特徴がある。日本文化においては、つねに「聖なるものの裏に賤なるものがある。賤なるものの裏に聖なるものがある」(Œ7)が、その周縁部においては聖と賤が等価物として入れかえ可能になるということが起こる、という。中上はそれを「聖と賤の環流」と呼んだ。
 がらんどうの震える穴を出入りする匿名のモノがある。見方を反転させれば、それが聖なるものにも賤なるものにもなる。その典型的なイメージとして中上が思い描いたのは、日の丸である。あるいは、日輪を模倣した結果として肛門に喩えられることにもなった菊の御紋である。ジョルジュ・バタイユが「太陽肛門」というエッセイの冒頭で「世界はことごとくパロディでできている。目にするものはどれも別のなにかのパロディ。見かけだおしの同じ中身なのだ」(Bataille 1927)と述べているとおり、中上にとって、暗い穴と輝く太陽はたがいのパロディでもある。日没するようにアマテラスの隠れた暗い穴は、アマテラス自身の姿でもある。それこそが、アマテラスが鏡つまりは影身をとおして穴を出て、昼と夜の区別が回復された、ということの意味でもあるのだろう。闇のないところに光はない。「日本国の裏」にはかならず「名付けられていない闇の国」がある(Œ7)と中上はいう。闇は無ではない。日出ずる国としても知られる日本国は、無ではなく闇という境界によって裏付けられている。だからこそ、中上は晩年になって次のようにも述べている。

日本っていうのは、こう外部と内部が絶えず入れ替わるっていうことが、つまり日の本っていうか、日出づる国っていうか、あるいは日没する国でもあるんだけど、その日本の意味だと思うんだけど。(Œ16)

 このようにつねにものごとを両面的にとらえ同一性を宙吊りにするというということ、既定のボーダーを無化しようとするということが、部落差別を読みかえようとする中上の基本的なスタンスだった。(被)差別者=小説家を自認する中上はその点、トリックスターとしての役回りを演じていると言っていい。
 山口昌男によれば、トリックスターは、二つの極の「仲介者として、対立項の双方の属性を兼ね備えている」。それゆえに、ボーダーを越えることもできる。中上はなにより「路地」の者を騙ることに成功したトリックスターだった。春日出身者の血を引くわけでもなく、八歳のときにはすでに他地区へと連れ出されている中上は、あきらかなよそ者だったが、言葉を駆使することによって、すくなくともレトリックにおいては、そのボーダーを越えた。
 他方では、それと同時に「レベルの転倒」(Œ7)という役回りを担わされた者として、自身のことを天皇に類する存在と見なしていた。そして、天皇に「近しさ」(Œ20)を感じ、深い共感の念を抱いていた。自身が被差別部落の生まれであることを告白して間もないころに連載をはじめたルポルタージュ『紀州』のなかで、中上は天皇への言及をはじめる。

ここで、天皇を出すのは唐突であろうが、日本的自然において古代の天皇とは、日と影、光と闇を同時に視る神人だったように思う。賤民であり同時に天皇であるとは、謡曲「蟬丸」を待たずとも、光と闇を同時に視る人間の眼でない眼を持つ神人のドラマツルギーであるが、[…]この日本では文化、芸能、信仰等において、被差別は差別するというのが一種テーゼとしてあったはずである。(Œ7)

 中上のひとまずの主張としては、差別こそが日本文化の始原にあった。その点で日本文化は賤民の文化であり、その体現者こそが天皇であるとする。とりわけ日本語の書き言葉としての「言の葉」の仲介者であるという点、物語の通り道となるようながらんどうの穴であるという点において、自身も天皇も同じ(被)差別者=トリックスターであると考えた。
 中上は折口信夫にならって、そのような存在のことを「みこともち」と呼ぶ。「物語/反物語をめぐる150冊」のなかには、中公文庫版『折口信夫全集』の一巻から三巻にあたる『古代研究』が挙げられている。そこに収められた1928年の講演「神道に現れた民族論理」の抜粋を引いておこう。

みこともちとは、お言葉を伝達するものゝ意味であるが、其お言葉とは、畢竟、初めて其宣を発した神のお言葉、即「神言」で、神言の伝達者、即みこともちなのである。[…]最高位のみこともちは、天皇陛下であらせられる。即、天皇陛下は、天神のみこともちでお出であそばすのである。(折口 1995a)

 天皇は日本に無数にいるみこともちのなかでも「最高の詔(みこともち)である。みことというのは神のことばも誘うわけで、そういう神のことばを仲介する、まあ最高の人間である」(Œ20)と中上自身が蓮實重彦を相手どって説明を試みたこともあったが、うまく話が通じなかったし、中上自身でさえよく意味がわかっていなかったのかもしれない。中上はなおいっそう奇妙に思われることを『紀州』のなかで述べている。

突飛な発想かも知れぬが、この日本の小説家のすべての根は、右翼の感情にもとづいていると思ったのだった。現実政治や団体としての「右翼」ではなく、そのまま何の手も加えないなら文化の統らぎであるという天皇に収斂されてしまう感性の事である。[…]私と三島由紀夫との違いは、言葉にして「天皇」と言わぬことである。[…]「天皇」と一言言えば、この詞《ことのは》の国の小説家である私の矛盾の一切もまた消えるはずである。私の使う言葉は出所来歴が定かになる。(Œ7)

 中上が晩年に用いた言葉を使えば、中上はここで自身のことを三島由紀夫と対比させつつ「逆立ちした天皇主義者」(Œ17)として理解しようとする。「逆立ちという言葉が適切でないなら、ねじまがった、と言い換える。ねじまがった天皇主義とは、天皇を徹底的に文化の文脈に置いて読み込む事であり、一つの外部に従属し、融合し、軋むもう一つの外部として自分をはっきり自覚する事である」。
 中上のいう文化の文脈における「天皇」の意味は不明である。ちょうど路地やうつほ、差別、文化、物語という語がそうであるように、ここでの天皇もまたマナ語としての不透明感を漂わせている。ただし、ここまでの流れのなかで確かに言えるのは、中上にはまず、日本=賤民文化の担い手としての自覚、みこともちという書き言葉の専門家としての自覚があるということ。それゆえ、日本文化の体現者としての天皇=文化の統らぎに従属しているという意識があるということである。
 では、文化の統らぎとは何だろうか。中上健次を名乗る「私」という語り手は『紀州』の取材旅行中、草が雨に濡れているのを目にとめる。そこで「言葉が雨という言葉を受けて濡れ」ているようにも思う。おそらくは「言葉」の一要素である「葉」からの干渉でも受けたのか、草という言の葉が言葉の雨に濡れているように思ったのだろう。そして、次のように「天皇」というマナ語を注意深くカギ括弧でくくりながら考える。

言葉を統治するとは「天皇」という、神人の働きであるなら、草を草と名づけるまま呼び書き記すことは、「天皇」による統括《シンタクス》、統治の下にある事でもある。では「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう。[…]もし、私が「天皇」の言葉による統治を拒むなら、この書き記された厖大なコトノハの国の言葉ではなく、別の、異貌の言葉を持ってこなければならない。あるいは書くこと、書かれる事を拒む語りの言葉か。[…]書くことの毒、書き言葉の毒に私は侵されすぎている。(Œ7)

 中上はこのように日本語という書き言葉に染められた自分自身のこと、言の葉のナラティブ・ハビトゥスによって形成された自己のことを、なんらかの統括を受ける者、つまりは字義通りの意味での民、民草として理解する。そして文が文として成立する一連の法(コード)を意味する「syntax」が「統語論」と訳されているのを受けて、統括をシンタクスと読みかえ、それを文化の統らぎの働きに重ねあわせる。
 このことから「天皇」という語は(被)差別者=トリックスター=みこともちという物語論的な役回りを指すだけでなく、日本語の書き言葉の成立に関わるきわめて抽象的な働きを指していることが伺えるが、詳しくはよくわからない。現段階ではただ、みこともちのなかのみこともち、トリックスターのなかのトリックスター、言の葉の通り道としての暗い穴のその大もとのようなものとして想起されていることだけはわかる。
 いずれにしても、中上は自身が言の葉の出入りするがらんどうの穴であることへの鋭すぎるほどの自覚を持っていたし、言の葉の流れを通してのみ作家としての「中上健次」が存在しているという自覚も持っていた。書き言葉の世界の外に「中上健次」は存在しない。それと同様に、言の葉を、あるいは民草を、一点に束ねるもの、文化の全体性を楔石のように引き受けるような収束点なければ、日本文化は存在しない、と中上は考えたのかもしれない。
 中上のこのような天皇概念は、何人かの批評家たちから文字通り「右翼的」と見なされてきた。実際、三島由紀夫が『文化防衛論』のなかで論じている「文化概念としての天皇」を思わせるところがある。
 しかし、天皇がなければ日本文化はない、という中上の考え方は、日本文化を賤民(天皇を含む被差別民)の文化として読むという試みの論理的な帰結でもあったように思われる。被差別者が文化=差別の働きによって生じている以上、そして被差別者がいまなお現実に存在して、文化=差別の働きをまざまざと物語っている以上、それを抜きにして文化を語ることはできない。裏を返せば、中上が「日本文化」と呼ぶものには、天皇や賤民という被差別者の存在をその大前提として含意している。それらの存在が含まれていないものを中上はもはや日本文化と呼ばなかったはずである。
 しかし、中上の議論の面白いところは、天皇を天皇として、あるいは賤民を賤民として明示的に語ることに終始したわけではない、ということだ。仮にそうだったのであれば、それは単なる素人による文化論ということになっていただろうし、社会物語学的と形容する必要もなかっただろう。中上はあくまでも物語を紡ぐ者の立場で、文化=差別の働きを、物語の働きとして読みかえ、物語というシステムのメカニズムを探ろうとする。
 中上はそこで、物語=差別の働きによって開かれた「擬似神話空間」というものを設定した上で「物語、さらにそれの近代的亜種である小説に定型があるのは、まったくその擬似神話空間に因ると考え、さらに、日本文化の様々なジャンルに相渡る定型こそ賤性の発顕であるとしたのだった」(Œ12)。これからその内容に入っていこう。


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