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桜の舞う頃に雪は舞う④

 その日、夢を見た。由乃がいた。由乃が燃える家へ走り出そうとする姿が見えた。その近くで子供の泣き声が聞こえた。僕は、後ろから聞こえる子供の泣き声を無視して由乃の肩を掴もうとした。
「私は行かなきゃ」
僕の手が肩をすり抜けて、体が前へとつんのめる。由乃は僕の姿も声も聞こえていないのか、ただ燃え盛る住宅へと視線を注いでいる。
「うわぁぁぁん」
 子供の耳障りな泣き声がなおも大きくなる。うるさい奴だ。お前の父親のせいで由乃は死んだ。僕は透ける体で由乃に覆い縋るようにしたが、それでも効果はなく由乃は足を止めなかった。
「やだ、いかないで。助けてお兄ちゃん」
後ろから絶叫が聞こえる。知るか、お前の父親のことなんか。自業自得だろう。僕には由乃しかいないのだ。
「ごめんね。君を一人にしちゃうかも」
そう言うと、さっきまで前しか向いていなかった由乃が僕の方を向いた。
「由乃」
由乃が僕に気づいたと思い、手を伸ばしたが由乃は僕の体をそのまま通り抜けて、足を進めていく。伸ばしていた手が力なく落ちる。
……そうだよな。僕の姿が見えてないなら、足を止めるのはあの子供の為だよな。さきほどまで泣き続けていた子供の声が小さくなる。
「泣かない、泣かない。君ならきっと私がいなくても笑えるようになるから」
由乃の声が背中越しに聞こえてくる。僕の視界には燃え盛る住宅が映る。もういいだろう。あんなやつ見捨ててくれ。僕のために生きてくれ。いや、僕の為じゃなくてもいい。君が生きてさえくれていれば、別に離れ離れになったってかまわない。
「嫌だよ。僕はお姉ちゃんがいないと生きていたくないんだ」
 そう背中越しに声が聞こえる。その声に後ろを振り返る。由乃と五歳くらいの男の姿が見えた。由乃が子供と同じ視線になるように身を屈めて呟いた。
「ごめんね、時雨。君を一人にしてしまう私を許して」
 そう言うと、由乃は僕の方に向き直り、燃える住宅に駆けだした。
「やだ、やだ。いやだよ、お姉ちゃん。お兄ちゃん、助けて、助けてよ」
 絶叫する子供の姿を見る。絶叫していたのは、あいつの子供なんかじゃなかった。幼い自分自身だった。炎に焼かれゆく由乃の背中をただ見つめることができない幼い自分だった。
 そして、炎は世界を真っ赤に包んでいく。家が焼け、空間が焼け、きっと由乃も……。僕は焼ける世界を茫然と眺めることしかできなかった。
「ざっ、ざっ」
 靴の音が近づいてくる。そして音が止むと声をかけてきた。
「お兄ちゃん、また殺しちゃったね。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも死んじゃったのに、それでも大切な人間を作ろうなんて甘い考えをするからこういうことになるんだよ」
 子供は泣きはらした顔のまま、なおも言葉を続ける。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんが殺したんだよ。皆、お兄ちゃんがいなければきっと生きていたんだよ。だって、お兄ちゃんの大切な人だけが死んでいるじゃん」
「…………」
「ねぇ、僕もう疲れちゃったよ。楽になりたいんだ」
 僕だってそうだ。だけど……。
「…………もう少しだけ待っていてくれ。由乃の日記を全て聞き終わったら、そうするから」
「そう、それならいいんだ。約束だよ」
 それを聞くと、幼い僕は満面の笑顔で、炎の揺らぐ赤い空間に呑まれていった。そして、僕も真っ赤な世界と同化した。
 目を覚ます。冬だというのに大量に汗をかき、何だか熱っぽい。大量の水をあおり、気分が落ち着くのを待ったが、全然回復しない。結局、昨日食べたホットサンドを戻してしまった。五度目にはほとんど胃液しか吐き出すことはなかった。
 鏡に映るやつれた自分を見ると何とも言えない気持ちになる。そんな自分に向き合うのを避けるように、気づけばキャンバスに向き合っていた。
 夢で見た地獄の様な煉獄を色々な色で表現した。テレピンの匂いが鼻腔をつく。黒を出すために、わざわざ色を混ぜて作った。自分の作りたい黒は、既存の絵の具では表現できない。没頭して夢の景色を目の前のキャンバスに投影する。
 …………キャンバスに向かっている瞬間だけは、自分という個が消滅する。感情をキャンバスに吐き出すだけの道具にでもなった気すらする。感じたものをそこに吐き出すまでは、手が止まることはない。
 書き終わると作品を一瞥することもなく、絵が置いてある部屋へ雑に放り投げた。別に破けようが壊れようが構わない。自分の気持ちを落ち着ける儀式でしかない。絵を描くことで気分が幾分落ち着いた。
 そして、それからまた、いくつもの自分を捨てた。はまっていた小説やSEの本などをまとめると結構な冊数になる。だが、そのどれも誰かに買い取ってもらおうとは思えなかった。
 ……もしも、僕がこれからも生きていくことを選択するなら、そういった選択肢もあったかもしれない。だけど、僕はそうじゃない。もしも買い取った誰かが、そのことを万が一知ることになれば間違いなく嫌な気持ちになる。だったら、そんなものはこの世から消滅させてしまいたい。ぽっかりと開いた本棚の中にはまだ色彩の本や自分の好きな画家の画集が並んでいる。部屋には、飾られているお気に入りの画家の絵もある。
 …………大丈夫。これだって僕は捨てられる。執着するほど絵に思い入れはないさ。ただの呼吸する手段だから。ただ、もう少しだけ僕という存在と共にあるだけさ。
 夜になり、由乃の声を聞く。彼女は、相も変わらずにお気楽な声で、当たり前の日常を楽しんでいるようだった。学校で文化祭があるそうで楽しそうに準備をしているようだったが、その日は少しだけ声のトーンが違った。
「今日はお化け屋敷で着ることになっている服を仕上げたよ。あえて、ぼろぼろにしてみたり、穴を開けてみたりと工夫もしてみた。クラスの友達は、どうせおばけ屋敷の中は真っ暗だから適当でいいじゃんと言ったけど、そういう問題じゃない。誰かが見てなくても、自分だけは、手を抜いたかどうかなんてわかってしまう。そんな中途半端なものを作るくらいなら最初から作ろうとなんて思わない。最近思うんだけど、皆おかしいと思う。何かを作るっていうのは、世界に自分を残す証だと思う。例え、それがどんなわずかな時間だって、そのことは間違いないことなのに……。布一つをとったって、それを作るのに色々な人の手や命が使われている。だったら、たとえすぐに捨てることになったって、作っている最中だけは全力でそれに向き合うべきだと思う。…………なーんてね。まぁ別にいいんだけどね。うーん、なんか私らしくないかも。なんでこんなに急に真面目な話してるんだろ。まぁ、いっか。今日はこれで終わり」
 …………。
 画材部屋に戻り、先ほど放り投げた絵を壁に立てかけた。
……別に意味はない。
それからも耳を澄ます。どうやら文化祭はうまくいったようだった。踊るような声で成功したことを喜ぶ由乃に思わず僕も嬉しくなる。そうして彼女の世界に浸った。
そしてその日のうちに彼女は小学校を卒業した。
「別にいうことはないかな。だって先生は変わるけど、中学でも皆一緒だしね。あー、でもあえて話そうとするなら、お父さんとお母さんは泣きすぎ……。両親揃って泣いてるんだもん。目立ってしょうがなかったよ。友達にはそれでからかわれるし……」
「こら、由乃」
由乃の両親が慌てたような声で、由乃を止めようとしていた。しばらく、家族の幸せそうな笑い声が聞こえてきた。心に沁み渡るような穏やかな情景が頭の中に流れ込んでくる。
しばらくの笑い声の後に、由乃達の声がぶっつりと途切れた。部屋から音の色彩が消え、モノクロの自分だけの世界が広がった。
 その日、寝ている最中に紅葉から連絡があった。良かったら由乃の両親にも会ってくれないかというお願いだった。……正直言うと、合わせる顔がない。全く記憶にすら残っていない葬式以来、挨拶にも顔を出せていない。本当はこういう時にこそ、僕も彼らを支えないといけないということは頭では分かっている。
 だけど、僕はこの世から去ると決めた人間だ。この期に及んで紅葉達と関われば、僕という存在が彼らの中に組み込まれそうで怖い。どれだけ、彼らと通じ合おうとも、僕自身の結論が変わることはない。
 僕が嫌なのは、既に由乃の死によって弱っている彼らが、僕が死ぬことによって無駄な傷を負うことだ。僕は、彼らにとって人生においてたった三回会っただけの人間だ。だから、そんな自分が死のうが、彼らはそこまで傷を負うことはないだろう。だけど、これから交流するとなれば、話は別だ。僕という存在が彼らにとって大きくなることは絶対避けたいことだった。由乃の大事な人たちには少しでも幸せでいてほしい。
 紅葉には、もう少しだけ時間をくれと伝えた。その時に小学生時代の電子日記は全て聞き終えたことを伝えると、夕方にまた例の喫茶店に来て欲しいと言われた。

いつも読んでくださってありがとうにゃ。 ゆうきみたいに本を読みたいけど、実際は読めていない人の為に記事を書いているにゃ。今後も皆が楽しめるようにシナリオ形式で書いていきたいにゃ。 みにゃさんが支援してくれたら、最新の書籍に関してもシナリオにできるにゃ。是非頼むにゃ。